令和5年10月10日
   覚りの旅  令和5年10月10日 三救祭

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司会

祭典5分前になりました。10月10日は三救のご神業始まりの日であり、結びの月、結びの日です。
3月3日、5月5日の祭典と同じく、10月10日もまた百(もも)の祭典と言えます。
全ての神様が主神様に帰一していくことを認識させて頂く祭典とさせて頂きたいと思います。
⦿(す)の言霊を認識させて頂く為に大石凝真素美翁の文章を初めに先達が朗読いたしますので心静かにお聞きください。

三救責任者

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司会

ただ今から、三救祭をとり行わせていただきます。

天津祝詞、善言讃詞奏上



三救責任者


天津祝詞、善言讃詞奏上



三救責任者

皆様、三救祭おめでとうございます。


参加者一同

おめでとうございます。


三救責任者

三救祭に初めて参拝される方もおられますので、今迄の私の挨拶内容から経緯を振りかえらせて頂きます。


平成30年、2018年が初めての三救祭でした。

三救での御神業が始まるということで、この時は『大千三千世界は主神様御一方が主宰され給う』これは『仏滅と五六七の世』、昭和27年『文明の創造』に書かれている御教えです。『仏滅と五六七の世』はちょうど今月学んだ御教えであります。そして、伊都能売大御神様について、新しい生命の息吹と関係があるのだということをお話しいたしました。

救いの三本柱ということで、Three Pillars of Salvation TPOS)救いの三本柱、三救として御神業を始めた年であります。この日から始めました。三救のいわゆる開教記念日でもあるのです。

 

令和元年は2019年。

十月十日は結びの月で、結びの日である。

この年は、即位の礼がこの月に行われております。皇位の継承を世界中に知らせる時代の節目でありました。

王権のシンボルが皇祖神に受け継がれ、現代にメシヤ様に受け継がれ、すべての神様が主神様に帰一していくことを認識させて頂く、という祭典でありまして、

三救 → 加良比乃神社 → 三救 という参拝をさせていただいております。

 

令和2年、2020年は

『神様はご自分から祭りをしてくれとは決して仰るものではない、信者からどうぞお祭りをさせて頂きたいと申し上げなくてはいけいけないのだ。』 世界救世(メシヤ)教の秋季大祭がこうして始まったのだというお話をさせていただいております。

10月26日というのは、岩戸観音堂の方は、先生がそういうことを認識して始められたのだと拝察しております。

10月10日は加良比乃神社に関することとして、三救祭として三重で始めております。

ここでは万教帰一、帰一ということで、所属、神様が異なっても元は主神様御一方である。一神にして多神なんですという話をいたしました。

ミクラタナの神様ということで、王権のシンボルであると。主神様から降る御魂 ゝ(チョン)、 光の玉〇に ゝ(チョン)が入って、⦿ となった時にメシヤ様という御存在になられた。

この王権と言っても、覇権主義では手に出来ない、徳で治めるということが重要です、というお話をさせていただいたかと思います。

 

令和3年、2021年は

帰一、一とは元の神様、即ち主神の事である。それに帰する、主神に帰することであります。

弥勒出現時には宗教の役割を終えて、すべての神々は主神様に帰一していく。

観音様の御出世、神々の主神様への帰一、この認識をさせていただくことが御神業の本目なんだと。

定山渓で主神様の御神名をこの時、この年に奉唱させて頂いております。

 

令和4年、2022年

ミクラタナの神様は、五十音を並べる言霊の棚だとの説がありますと、「メシヤ様の御神格を求める座談会」に投稿したことがあります。
また、古事記に出てくる神様は一音一音が神様で五十音の言霊と五十の運用方法で百柱(はしら)の神様が登場すると、10月度覚りの旅で、コトタマ学の桃太郎伝で学ばせていただきました。
最高の言霊を発せさせて頂けますよう、祭典前に 大石凝眞素美翁の ⦿(す)のいわれの文章 を朗読させていただきました。
9月に定山渓参拝し、10月に加良比乃神社参拝して、祭典を迎えました。

帰一ということを認識させて頂く為の祭典であるということ、そして、ミクラタナの神様と言いますと、五百津美須丸(いほつみすまる)とか麻邇(まに)の玉、如意宝珠で、観音様の神霊(みたま)だと。そういう風な御教えがございますので、そこを紹介させて頂きました。

 

力の本源ということで、昭和二十五年六月十五日、メシヤ様の御腹中の光の玉に、麻邇(まに)の玉、五百津美須麻留(いほつみすまる)の玉、如意宝珠(にょいほうしゅ)の玉、玉とは魂であるから、その魂が天から降下され、宿られ給うた。これをメシヤ様は結実と仰いました。それが段々育つに従って、玉の力も日に月に強力となりつつあるのである。ただ現在その神様の御名前を詳しくいう訳にはゆかないが、いずれ時期が来たら発表するつもりである。

そのような御教えがございまして、この、時期が来たらということで、「ミクラタナの神様」ということを先生が発表なされたということであります。

祭典には繋がりがあるということで、2月3日節分祭でお詫びをすると光が弥増して、6月15日地上天国祭に反映していきます、ということと、3月3日、5月5日、10月10日というのも、「もも」という繋がりがあります。百の祭典であるわけです。

桃の実 と 桃の花 と、10月10日は百ということで、皆、「もも」です。「もも」と読めますので。

それで、『 開教の辞 「世界救世(メシヤ)教の誕生に就て」 』 という御教え、昭和25年2月4日を見ますと、観音様が中心だということでお話しして参りました。観音様の働きは、光明如来であり、救世主メシヤであり、弥勒神などということで、『開教の辞』に書かれています。

光明如来様がこういう働きをされるとは言ってません。観音様が救世主(メシヤ)の御働きをされるんだということを言われています。

ですから、帰一、一とは元の神様、則ち主神の事である。それに帰する、主神に帰することであります。

もう一度『開教の辞』のところを確認いたしますと、

 

そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシヤ(救世主)、彌勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変わるのではない。いわば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或(ある)時期まではそのままで差支えない。

観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である。

 

それ、というのは御働きです。だから、救世主的、メシヤ的な御働きをされるのは、元は観音様ですよということです。

 

即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲(ここ)に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。

 

観音様が光明如来様にもなられるし、弥勒神様にもなられて、最終的に「メシヤにならせ」の時に、メシヤになられる。救世主の存在になられるのは観音様が元です。派遣されたのが観音様です。


ということが、この『開教の辞』でお分かりいただけるのではないかと思って、この時に紹介させて頂いております。

昨年度の挨拶の内容、これは三救祭が始まってからの三救だけの挨拶の内容を振り返らせて頂きました。

そこで、もう一度、大石凝眞素美翁の ⦿(す)の文章をよくお読み下さい。

最後に皆で読んでもらおうかな。(笑)

そしてその内容、翁の想い、この文章を取りあげた先生の想いを拝察してみて下さい。

私なりに拝察しますと、次のように読めます。

その文章を自分の理解のもとに大枠で捉えて読み下すと、


⦿(す)の言霊を明らかにすると、世界一切の最高真理で、秩序(正しい順序)なのです。

(今月の覚りの旅のテーマでもありました。順序ということで、五六七、日月地、の順序になっていくという。)

創造主の真実とは ⦿(す)のことです。

⦿(す)の言霊は七十五聲の言霊の性質を全て備えています。

そして、全くまじりけがありません。

だからこそ、眞位(みくらい)を保って存在されます。

善悪統べて(統合して)純一なるを眞位(みくらい)と呼ぶのが真実なのです。

私達人類は、

⦿(す) の認識を深め、明らかにしていかねばなりません。

⦿(す) は皇(すべらぎ) 即ち 眞位(みくらい) なのです。

⦿(す) が宇宙・世界の根源なのです。


このように読ませて頂きました。

この眞素美翁の文書を声に出して繰り返し読むようにメシヤ講座で学びました。

言霊を心できいてみて下さい。

私は、 眞位(みくらい) という言霊が頭に響いてきました。

反対が純一に···これは善悪結んで··ということは伊都能売ではないか。

そして、眞位(みくらい)を保つから⦿(す)の存在であり得るのだと。

(今、この眞素美翁の文章の一つの読み方をお話しさせて頂いています。御教えの話ではないです。)

眞位(みくらい)は皇(すべらぎ)··この皇(すべらぎ)というのは、天照皇(すめら)大御神様の皇(すめら)ですね。ですから、武力ではなく徳をもって世の中を治めることのできる皇(すめらみこと)、この皇(すめらみこと)というのは御教えで言う伊都能売神皇のことに大元は繋がっていきます。

このことを眞位(みくらい)というのではないかと思わせて頂いたのです。

眞位(みくらい)という言霊を頭に浮かべてもらうと、

みくら は御倉板挙の神様

い は伊都能売の神様

そのように思わせて頂いたわけです。

昨年はここまで深く拝察させて頂くことなく、祭典で翁の文章を取り上げて朗読させて頂きました。今年の祭典で1年を経て認識させて頂けましたことは大変ありがたいことだと思います。


神様の関係性は分かりますか?

国常立尊様が北海道の艮の方角、日本の艮の方角、芦別岳に御隠退されたという事がありました。

そして、皇位は時代が下って伊都能売神皇に譲られた。

岩戸観音堂に関係する神様という事でいつも話をさせていただいておりますけども··。

伊都能売神皇は統治権を持たれていた。これが御位(ミクライ)なのではないかと。

伊都能売神皇は、素戔嗚尊に攻められて統治権を天照天皇に御譲りになって、御位を捨てて観音様になって、インドへ渡られます。インドで観音様は御釈迦様に御垂示されます。

御釈迦様は56億7千万年後仏滅になる、弥勒下生する、そういう御話をされます(予言をされます)。伊都能売神皇が御持ちになられている統治権というのは、徳で治める··、要は武力では奪えないという事で。統治権を譲られた天照天皇は統治権を持っていて、素戔嗚尊が奪おうとして、統治権を棚上げする、御位を棚上げする。漢字も御倉板挙(板の上に挙げる)ですから、御位を棚上げされたんじゃないかと。

天照皇后は統治権はないので、それからずっと時代が下ってくる。だけど、形としては天武天皇の時代から天皇の血族でないと日本を治められないという事がずっと続いていくわけですね。天皇として。

ここでも位、形の変わった位、体的な位が、

例えば、征夷大将軍というのは天皇が代替わりごとに任命しているんです。それが、任命された位が元に戻されたのが明治天皇の時代の大政奉還ですね。

藤原、平安時代は関白、鎌倉時代は将軍、室町時代も将軍、江戸時代も将軍ということで、天皇が任命する、位を任命するということでずっと来ていた。

実際の霊的な位というのは「みくらい」というのは棚上げされてる。


「大師は弘法に奪われ太閤は秀吉に奪わる」という言葉があります。大師というと、色んな大師がいますが一番有名なのが弘法大師です、太閤と言えば秀吉ですよね。

貧しい生まれから立身出世することを、今太閤と言います。伊藤博文とか田中角栄とか、今太閤です。

幕府というのは、幕府の幕というのはテントのこと。古代中国将軍のいる天幕を意味する。これが日本語に借用されて武家の棟梁であるものの名称となった。だから、幕府というのはテントですね。

ここで言いたかったのは、御位というのがずっと棚上げされてきましたということを言いたかったんです。

本日の祭典をもって「みくらい」ということに気づかせて頂けたら有難いと思います。

本日は「みくらい」という事についてお話しさせて頂きました。

この、⦿(す)のいわれの文章をもっと深く考えてみよと、魂で受け止めてみよと、そのように受けとめさせて頂いて、御倉板挙の神様、伊都能売の神様、主之大御神様、全て主神様に帰一させて頂くということで、この祭典を積み重ねているのだと、この機会に受け止めて頂ければ大変ありがたいと思います。

それでは最後に先程の文章を皆さんで朗読させて頂いて終わらせて頂こうと思います。

それでは、みなさんで。


参加者一同

⦿(す)のいわれの文章 朗読


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ありがとうございました。


司会

以上を持ちまして三救祭を終わらせて頂きます。

ありがとうございました。


参加者一同

ありがとうございました。