『覚りの旅』の始まりから振り返りたいと思います。


平成308

〝覚りの旅〟の復活を!

 2899日に遷座祭を執り行いましたので、来月で満2年、3年目に突入いたします。メシヤ教の活動はメシヤ講座での学びが基本でありました。先生がメシヤ講座において〝覚りの旅〟を始められたのは先生が霊界へ旅立たれた後も、それぞれの拠点において〝覚りの旅〟を続け、霊性を向上させ、地上天国建設の核となれる存在となっていって欲しいとの想いが込められていたのではないかと拝察いたします。

 先生のようなメシヤ講座には到底及びませんが、この一年間の神幽現三界の共同作業を通して得たことを踏まえて〝覚りの旅〟を復活し、皆様と学びあいたいと思います。

 

 私は、世界布教のあり方とは何か?ということが常に気になっておりました。まず、仏教につきましては、私共が仏教基礎講座に1週間も参加したことの内容を先生に話したとき、「そのことを学ぶために参加したのだよ。」と言って頂いたことです。

この内容はメシヤ講座に詳しいので読ませて頂きます。

 

メシヤ講座no.188三重(平成2810月)より


光背

先生

それから、今キリスト教とイスラム教は言いましたが、仏教が本来の姿に戻るというのは、先月の支部長代理の挨拶になりますので、


支部長代理

仏滅ですか?


先生

仏滅でなくて、仏像の姿。


支部長代理

ああ、なるほど。※光背ですね

※仏教の教えも、諸説(しょせつ)ありますが、仏像に手を合わせますが、仏像の光背(こうはい)(背中にある円ですね。光の輪です。)この光に対して礼拝している。前の仏像は形だけ・・・格好がつかないから置いてあるのだそうです。メシヤ講座no.187三重(平成289月)より

 

先生

光背というのは一体何かという事を求めていけば、本来自分たちが何々宗、何々宗とご本尊をお祈りしている姿は実は真実ではないという事に気付いていくので、これが洗練という事なのです。だから、良い勉強会に行ってきた・・・。もうその一点だけを聞く為に、一週間くらい行ったのです。(笑)この事が仏教の世界で解って行けば、本来の『主神様』にまた辿り着いていくので、こうして大きい世界宗教が本来の『主神様』に信仰の対象がぐぐっと焦点が合って来る。これが大きい形では洗練されるという事で、我々の日常生活に於いては、食べ物とか、生活とかが洗練される

洗練されるというのは非常に簡単なのです。
メシヤ講座の古い所に「生け花教室には通ってはいけない。華道教室には通いなさい。」という言葉があります。「お茶の教室には通ってはいけない。茶道教室には通いなさい。」という言葉がありますように、茶道とか華道というのは、「道」を教えるので、今日は暑いので戸は全部開けられていますが、この戸を開ける時には茶道の場合は、「心を添えて開けなさい。」という風に教えますよね。この「心を添えて開けなさい。」という、その心の部分を実は我々は大切にしていかないといけません。(中略)

 

皆さん方がお米を研いだり、洗い物をする時も、みんなそういう『メシヤ様』の御教えに基いてやっていけば、家族というものが大きく変わっていく。そういうものに繋がっていくと思うので、洗練という中にはそうした事も、『メシヤ様』の御教えに基いて実践すると、物凄いものを生み出していくという事ができるのだ、という事をこの機会にですね、再確認をしておいて頂ければ有難いと思います。

 

メシヤ講座no.187三重(平成289月)

三重支部御遷座祭支部長代理挨拶


支部長代理

本日は御遷座祭に、こんなにたくさんの方にご参拝いただきまして誠にありがとうございます。さきほどの御教え『悪と守護霊』の最後の箇所に

『主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲に主神は愈々一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給ふ、之が九分九厘と一厘の闘ひであって、今や其一歩手前に迄来たのである。従って此真相を把握されたとしたら、何人と雖も飜然と目覚めない訳にはゆかないであらう。』

とありました。この九分九厘と一厘ということと、この数字がこの御論文の肝だ、と思いました。

九の数字につきましては、

『九は「つくし」といって極点です。十は経緯結ぶことでこれが本当の完成です。いまは九の世でありこれから経緯すなわち東西文化を融合するのが観音教団の仕事なのです。(御光話録 昭和23118日)』

と、御教え賜っております。

奇数を陽、偶数を陰としますと、陽の極まった数字が九であります。また、本日9月9日は重陽の節句で大変目出度い日でございます。この九分九厘の日に一厘の主神様の御神体を御奉斎奉り、新たな出発の許されましたこと、まことに有難く身の震える喜びでございます。

3月に引越しをいたしまして、4月8日に仮遷座祭を執り行わせていただきました。

(略)

ところで、7月6日は「ナム」と読めますが、「南無」と言いますと「帰依すること。」とメシヤ講座で学びました。他にも意味があります。これは、先月5日間仏教講座に家内と参加してわかったことですが、

「南無」というのは音写です。したがって南の方角は全く関係ありません。サンスクリット語のnamo(ナモー)という発音を中国に渡るときに、音写したのだそうです。英語ですとnameになり「名前」ということだそうで、原語の意味をとると「帰命」ということになるそうで、「阿弥陀の声を聞け、私に任せなさい」というのが「南無阿弥陀仏」の意味になるのだそうです。

ここで思い出すのが「南無妙法蓮華経」ですが、法華経に帰依する。ということで、法華経には「観音様の名前を唱えなさい。そうしたら救ってあげましょう」ということが書かれています。ここまでくると、「神様、仏様の名前というのは非常に重要なことなのだ。」そのお名前をお呼びすることが「救いの道につながるのだ。」ということがわかります。お釈迦様の時代から神様、仏様のお名前を唱えることの重要性を示されてきたわけです。

とするならば、現代に生きる私たちメシヤ様に帰依するものは、「メシヤと呼べ」と御垂示くださったことに素直に従い「メシヤ様」と御尊称申し上げるべきではないか。

主神様を御神体として御奉斎させていただき、「主之大御神様」と祈り奉るべきではないか。

“このことを知らせて行くことが私たちメシヤ様に帰依する者の使命ではないか”と思わせていただきました。

余談ですが、「しめい」と発音する字ですが、氏名(名前の“しめい”、名前が大事ですね。)=使命(つかういのちの“しめい”、何のためにこの世に生まれてきたのか使命があるからですね。)=指名(指し示す“しめい”、メシヤ様から御用をお申し付けいただくということでしょうか) 同じ“しめい”と発音する字に通じるものがあると思いませんか。

それから、本日は仏滅でございますが、前の支部での最後の3月の月次祭も仏滅でして、4月8日はお釈迦様の誕生日と言われていますが、この仮遷座祭の日も仏滅、5月は本部参拝がありましたので日程変更がありましたが、この日も仏滅、6、7、8月そして本日で7回連続して仏滅の日に月次祭を行っております。まさに仏滅の型をお示しくださったのではないかと思わせていただいております。

『今が仏滅から神(かみ)()、神の世界になる移り変わりという時になるのです。ですからその移り変わりの時の救いです。そうしなければ人類を救う事はできないのです。結局霊的にはそういった神仏(かみほとけ)という人が支配しているのですから、仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。キリスト教などもその弟子の偉(えら)い人というのは歴史にも沢山ありますから、そういう人達も救わなければならないのです。それからマホメットと、この三大宗教です。それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。(御講話 昭和28417日)』

と御教えにありますように、仏滅から神(かみ)()、神の世界になる移り変わりの型を見せてくださったのではないかと思います。

7回仏滅の日を重ねましたが、お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩、歩かれました。六歩が「六道(ろくどう)」と言いまして「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上道」とあり、天上は苦しみのない楽な世界ですが、楽な生活をしている分次に生まれる時には下に落ちるのだそうです。お釈迦様はその六道を一歩超えた悟りの世界の人だということだそうです。

仏教の教えも、諸説(しょせつ)ありますが、仏像に手を合わせますが、仏像の光背(こうはい)(背中にある円ですね。光の輪です。)この光に対して礼拝している。前の仏像は形だけ・・・格好がつかないから置いてあるのだそうです。

この話を聞いて、平成19年のまだ主神様の御神体を御奉斎していなかったころのことを思い出しました。

それは、《家内の思わぬ行動で、平成5年より御守護賜りました「五六七大神(みろくおおみかみ)」様の御神体をお巻き上げし、「座御(ざぎょう)観音」様を御奉斎し、先生より「参拝すると『主()』のお文字が浮かび上がってくるので主之大御神様として参拝されてよろしいですよ」というお言葉を頂き、また、先生より「『日月地(じつげつちのみろく)』は力を授ける時の働きで、『五六七(ごろくしちのみろく)』には御経綸の働きがあります。両方の働きが合体しないと本当の救いの働きが発揮できないのです。両方を発揮できるのは「主之大御神」様なのです。万教帰一とは「主之大御神」様の分神である八百万の神達が元の神につながっていくことです」と御教導頂き、「座御(ざぎょう)観音」様の見えない背後におわします主之大御神様に礼拝している想念を持って参拝をさせていただいておりました。》ということです。

“古(いにしえ)の頃より、仏像に手を合わせてお祈りする人も、南無阿弥陀仏とお唱えする人も、南無妙法蓮華経とお唱えする人も、すべては主神様を求めていたのではなかったか”と、思わせていただきました。

本日はある人の御好意によりお軸とお額、経緯(たてよこ)の『散花結実』の御書をお借りすることが出来ました。『散花結実』の深い意味について、メシヤ講座で、「光の玉に御倉板拳之神様が御宿りになり、この宿った種(たね)が成長して行()って成人を迎える頃には、大威徳を発揮される、その成人をする前に、大きくなり過ぎて、メシヤ様の御肉体の中には留められなくなり、肉体を終わらせられた。それが本当の意味で散ったという事、肉体が散ったという事で、之が『散花結実の本当の意味だ。』と御教導賜りました。

メシヤ様がこのお文字をお書きになられた本当の意味を知って、見ることができる喜びを『真心(まことこころ)』で受け止めたいと思います。

今月の御教えに出てまいりました、九分九厘と一厘ということについて、

『私のやっている仕事というのは、一厘の仕事なのです。九分九厘に対する一厘です。メシヤ教というのは、そういう意味で出現したものです。(御講話 昭和27827)

と御教えいただいておりますので、この一厘の御神業にメシヤ講座に集う皆が“お使いいただけますよう”、本日、支部で学ぶすべての方にご奉仕いただきましたように、“皆で手を携えて一厘の御神業の一端を担わせていただきたい”と、自覚させていただきましたことをご報告申し上げます。

本日は遠路のご参拝、まことにありがとうございました。

 

先生の挨拶とお取り次ぎ

先生

(前略)

支部長代理より報告頂きましたように、本日の御教えの中では『九分九厘と一厘』というのが、ひとつのテーマと、これは『文明の創造』の中で、昭和27年に御執筆になられた御論文ですが、『ここに最高神が御出座しになった』という表現がありますように・・・。今まで、例えば、リオオリンピックの中で会場に入る時に、陸上選手であれば、スタートラインに立つ時、必ず十字を切ったり、それから、深く大地に感謝する姿勢でスタート台に立ったり、或いは柔道選手が畳の上にあがる時の姿勢。みんなそれぞれが思っている最高神に自分は帰依しているという気持ちでオリンピックのステージに立つ訳ですけれど・・・。その御神格もメシヤ様が本日御説き下さったように、『次位の神様であるのだ。』と。それが愈々・・・、メシヤ様が御説き下さっている様に、主神様が顕現されて御力を、直接メシヤ様を通して我々に授けて下さっているのが、浄霊の御力であります。この御力を以て、今まで○○○○教は、浄霊というものを、病気を良くする、それが施術と言う言葉に集約されている訳ですが、その程度の浄霊観でしか高めて来ることが出来なかった訳なのですが、真の浄霊というのは『九分九厘と一厘の戦い』の『一厘の力』を皆様方に指し示していく証として浄霊というのがある訳ですので、この浄霊に取組む姿勢が更にみんな高まって行かなければ地上天国建設というのは遥か彼方の絵に描いた餅になってしまう。そういう恐れがありますので、本日の御論文を拝読して、そういう所に私たちの浄霊観を高めて、併せて御神業というものを見詰め直す、そういう祭典に本日はさせて頂ければ有難いと思います。

 

台風の進路と御神意

『ミクラタナの神様』からの御垂示があった時には、私は随分と疑い、悩み、そして御教えに求めてずっと取り組んだのですけれど、6月に入って頭の中が、今までずっと積み上げて来た論理的積上げが一旦空白状態になった話を支部長代理にした時に、「そう言えば、太陽の黒点も今無くなりましたね。」という話をして頂きました。本日の御教えの冒頭部分に太陽と月とそして地球の関係を御説き頂いておりますけども、メシヤ様は主神様の代表が太陽の黒点という事で表現されております通り、この黒点が見えない形になっていることを通して、今地球上に反映して、今年は太平洋高気圧の張り出しが非常に弱いために、台風が太平洋側を随分北上していきました。そして、北海道や東北に水害をもたらしました。その事から私たちは「覚り」の世界を目指している訳なので、主神様の御意図を求めて行った時には、どういう事が推測できるか、或いは拝察する事が出来るか、という事を考えて行きますと・・・。

(中略)そういう事を考えて行きますと、もうひとつ今メシヤ教の信者さん方と「覚り」の旅を続けている中で、強く神様から言われていることは、私たちの肉体が浄化を許されて行かない限り真の「覚り」というのは開けない、という事と合わせて、身体を汚さないようにしていかないといけないという事であります。身体を汚さないという事を目指した時には、まずは無農薬、無肥料の農産物を口にしていくという事と加工食品では原料も自然農法は勿論ですが、添加物が一切使用されていない、そうした食品を食していくことを目指さない限り、真の「覚り」というのは中々開けないものであるという風に御垂示頂いております。

そういった事に照らして現メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の実態を見ていくと、甚だ背筋が寒いものがあるかと思います。これから、更に私たちは改善させて頂きながら、「覚り」を開いて行かないといけないのですが、その「覚り」を何故開いて行かないといけないかというと、今日支部長代理が挨拶の時に三大宗教について触れましたが、それと深く関わって参ります。

 

I 邸の御神事と役割をいただいた重い責任

そして、今までI邸で執り行われたメシヤ様の御神事で、『これで間に合った、人類が救われる事になるのだ』という御神業の中身というのを明らかに御説き頂きました。『その御神業によって最終的にこの主神様の御神体が世に出るように取り計らったのだ。』と。そういう御神業だったのだ、と。主神様の御神体を世に出すための産みの御神業だったのだということを新たに教えて頂きました。そしてこの御神体が出ることによってメシヤ教としてスタートさせて頂きましたけれども、この御神体の形通りの事がこれから執り行われていくのだ、と。

まず、メシヤ教がチョン『●』になり、その周辺の輪は○○教の三教団を始め、○○教から離脱した教団、メシヤ様を教祖と仰ぐ団体が『○』になって、メシヤ教に組織が集まって来るのではなくて、“今のままではメシヤ様が真に進められようとされた御神業が進まないのではないか”という疑問を持って、そしてもう一度メシヤ様の御教えに求めている方々がこのメシヤ教にずっと集まってくる。それが『⦿』の形になっていくのだ、と。そして、その集まった人たちがまたチョン『』になって、その周りに○○教が復興してくる、と。この○○教が復興して来た段階で、キリスト教や仏教やイスラム教がその周りの『○』となって、その中の○○教がチョン『●』になっていくという形で、波紋の状態で拡がっていく

その一番の基になることがI邸で行われたのだ、という御垂示を頂きまして、なるほど、そうか!と受け止めれば受け止めるほど、私たちはまだまだ少ない人数ではありますけれども、責任の大きさ、重さに身が震えるような思いであります。なんとかこれを進めていかない限り、全人類が救われるということには繋がって参りませんので、その御垂示に基づいて、懸命に自らの向上に努めさせて頂きたいと思います。そういう事に取組むことによって、先ほどの支部長代理が引用された御教えを現実のものとして、私たちが進めさせて頂くことが出来るようになるのではないかと思います。

 

月次祭に臨む姿勢作り

そういう事をさせて頂くために、また来月の月次祭を迎えるそういう姿勢を是非ここでもう一度お取り次ぎさせて頂きたいと思うのですが、先月私が月次祭の取り組み方についての説明が不十分だったので、それについては神界から非常に厳しい御垂示というより、御叱責がありました。

『今のままの勉強会では、まだまだ・・・、よその〇〇教から離脱した教団が“我々こそ、明主様(当時は明主様と御尊称)の御心に叶う形で信仰をさせて頂きながら教団を大きくしていく”ということで取り組んで、当初の頃はそういう形で進めたのですけれど、やはり同じような事を繰り返す勉強会で終わってしまっているために、初心を貫くことができなかったのだ。』

と・・・。

今、メシヤ教も新たな気持ちで取り組んではいるけれども、

『今の様な勉強会の仕方では「覚り」という言葉だけが先走って行って、今までの勉強の仕方と、まあ御教えを解説したぐらいの、或いは理解したぐらいの、そういうようなやり取りでは「覚り」という所迄ではなかなか辿り着かないので、やり方を注意するように

という事でした。それと自分たちは今回メシヤ様の腹中に御存在していた光の玉に『ミクラタナの神様』が御宿りになって、そのことによってメシヤ様に御出世遊ばされたという事を再確認させて頂きました。その『再確認した事が今の状態では、実は自惚れになってしまうのだ。』と。そして、『自分たちが最初に知り得たという状態で、また終わってしまう』ということでした。

ですから、私たちが心掛けないといけないことは、本日は9月の月次祭ですので、8月の月次祭の時に、支部長代理、それから各出張所責任者の方々に「覚り」の一端を披瀝して頂きました。そして、それを受けて信者さん方も自分たちが受け止めた事というものを静かに自分の心の中に見詰めたと思います。それを1ヶ月間、この9月の月次祭まで、“どうだったのだろうか”という事を考えながら、1ヶ月過ぎた時に、“あぁ、あの考え方は間違いではなかった。しかし、この考え方は受け止め方が浅かった”という事を整理してこの9月の月次祭に臨まないと本当の「覚り」の世界は開いて行くことは出来ない、ということです。

そして、今日また支部長代理に先生して「覚り」の世界を披歴して頂きましたので、それに照らして“自分はどうだったのだろうか”というのを見詰めて行って、そして“自分は、今月はこういう事をこの御教えから学んだので、1ヶ月間心掛けていこう”という風に取り組んで10月の月次祭迄ですね、生活をさせて頂く中で、これは、自分は未熟だったなぁ、浅かったなぁと思ったら、それを来月月次祭の時にメシヤ様にご報告を申し上げて、「私は一層高まる方向に自分の心を持っていきたいと思います。」ということで、来月の御教えを拝読していく。そういう積上げによって、私たちの霊層界を上げていく、或いは「覚り」の世界を拡げていくという、そういう積み重ねを是非執り行って頂きたいというのが強い神界からの御要望です。

そういう事を考えて行くと、先月ある信者さんから、「自分は、今月『覚り』について、メシヤ様の御教えに求めて『覚り』とは一体何かという事を深く求めました。」ということでこの御教えに沿って考えましたという、その御教えを送ってくれました。短い御論文ですので、ここで皆さん方にも御伝えしたいと思います。

 

【『悟りと覚り(昭和24923日)』より】

『単にサトリといっても二種ある。即ち標題の如き悟りと覚りである。処で此二つのサトリは意味が非常に違ふ、寧ろ反対でさえある。

悟の方は消極的で、覚の方は積極的ともいえよう。仏教に於ても(とうがく)、正覚(しょうがく)、本覚(ほんがく)などといひ覚の方をいふが、事実はそうでもない。仏教は悟の方が多いようである。というのは此娑婆(しゃば)は厭離穢土(おんりえど)とか火宅とかいひ、人間は生病老死の四苦からは逃れ得ないとしてゐる。それも間違いではないがそのような苦に満ちた娑婆を排除し革正して、極楽世界たらしめようとする積極性こそ宗教本来の役目であるに拘はらず、苦の娑婆はどうにもならない、諦めるより仕方がないといふ。洵に消極的退嬰的であるのは悟の方であるが実は、之が仏教の真髄とされて来た。

何よりも印度(インド)の衰亡の原因はそこにあったのではないかと思ふ。又今日の日本仏教が危機の状態にある事もその現はれであらう。然し此事実を吾々からみれば今迄夜の世界であったからで、愈よ時期来って昼の世界に転換せんとする今、一日も早く目覚めて、覚即ち自覚の境地にならなければ救はれないのである。『地上天国』8号、昭和二十四年九月二十五日』

 

自らに問いかけながら進ませて頂く

私自身が「覚り」という言葉を前面に出し過ぎたので皆様も少し悩みの中に導いてしまったところがありますので、今日の月次祭でその点、お導きの仕方が非常に未熟であったことをお詫び申し上げて、これから御教えを拝読して自分は何を自覚していくのか、何を自覚しながら生活をさせて頂くのか、御神業に臨ませて頂くのか、という事を自らに問いかけながら進ませて頂く。そういう機会に月次祭をさして頂きたいという風に思いますので、宜しくお願いしたいと思います。

(中略)

今大変な時期を迎えているために、先ほどの台風が北海道に行く、東北に初めて上陸するというような事が大きな中で動いているという事を是非ですね、「覚り」を目指す私たちは世の中の見方もそういう点に着目できるような姿勢を持ちつつ、御神業を進めさせて頂きたいと思います。

 

互いに共振しながら覚りの世界へ

今後も私がこういう「覚り」の話をしていると、「最近先生は難しい事ばかり言って、私はチッとも「覚り」啓けないわ。」とかいう人も居ますけども、そういう人は全部先生の責任です。先生が「覚り」を啓かないとみんなの「覚り」を啓けないという事になりますので、“私はどうしても「覚り」を啓けないので”という人は、私に直訴して下さい。「私が啓けないのは先生がまだ『覚り』を啓けないところがあるからではないでしょうか?」という風にぶつけて下さい。そうした場合に「新たに『覚り』を啓けない原因はこの辺にあるのではないか」という事をまた太鼓の響きの様に叩き返していきますので、そうして、お互いに高まって行きたいと思います。(後略)

 

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〇今回取り上げました内容は、月次祭のあり方、メシヤ講座のあり方を指針頂いているものと思いますので、先生の意をくみとってできるだけその意に沿わせていただけるよう進めさせて頂きたいと思います。責任者だけの報告に留まることなく、是非とも皆様方の「覚り」の報告をしていただけたら有難いと思います。

 

仏教では「光背」がキーワードとなっていましたが、キリスト教では「十字」がキーワードになってくると思います。


 

昨年度の7月、8月のメシヤ講座も一読願います。


メシヤ講座no.196三重(平成297月)

メシヤ講座no.197三重(平成298月)