『文明の創造 科学篇』をメシヤ講座で読むー13

科学篇『霊主体従』(文創  昭和二十七年)拝読

(三救責任者)『霊主体従』に関連する御教えを確認させて頂きます。対談での御教えでございますので一般の方にもご理解頂きやすいかと思います。

【御教え】『栄光』267号、昭和29(1954)728

『人間は霊と体との両方で成り立っているのです。ところがその霊を認めないのです。医学というのは体を根本にして研究しているのです。しかし私の方では霊主体従と言っているのです。つまり、人間一人ひとりの中心は魂ですが、魂というのは霊界に属していて、体は現界に属しているのです。この霊界というのは現界と同じで層になっていて、その層は百八十段ありそのどれかに魂は属しているのです。たとえて言えば地獄にあれば、貧乏、争い、忌まわしい悪いことばかりがあり、だんだん上に行くに従ってだんだん良くなって、真ん中の中有界というのは、良いこともあるし悪いこともある中位の所です。それを越すと天国になりますが、ここは良いことの方が多いのです。良いことばかりが流れているのです。そこで人間に曇りがあると、罪によって、下の地獄に行きますから、地獄のすべての影響を受けます。そこで貧乏で苦しむということも、そういった下段の方に影響されているわけです。籍が下にあるからです。そこでその籍を上にすれば、そういう忌まわしいことが少なくなるから、貧乏やいろんな苦しみはずっとなくなるわけです。だから籍を上にすれば、嫌でも良いことばかりが来て、悪いことは来ないというわけです。そこはそういうようなことになっているのですから、しかたがないのです。貧乏もそういうわけです。今の人間はみんな地獄にいますから、それをだんだん上に引き上げなければならないのです。ですから救世教の信者はみんな貧乏をしなくなります。

(真山氏)では救世教の信者はみんな、病気もないし貧乏もしてないわけですか。

(メシヤ様)しかし最初はありますが、だんだん年限が経つとそうなるのです。

(真山氏)それは、どういうようにして引き上げるのでしょうか。

(メシヤ様)魂の罪が減ればよいのです。つまり、罪の重荷と言いますが、その罪を取れば軽くなるから上がるのです。

(真山氏)どういたしましたらその罪が取れましょうか。

(メシヤ様)浄霊によることと私の本を読むとかすることです。それは光が出るからです。私の方で発行する新聞の活字から光が出るので、それを見る人があります。

(真山氏)そうしますと私どもは当分の間は貧から救われないわけですね。

(メシヤ様)あなたしだいです。救われたいと思えば信者になればよいのです。そうすればドンドン良くなります。しかし、うまいことを言って信仰させようとするのだろうと思うでしょうが、思っても思わなくても、「信じろ」と言うのは嘘です。ものは試しだ瞞されたと思ってやって「なるほど、これだな」と思えばよいし、思わなければ御守りは捨ててもよいのです。

(真山氏)私も救われたいとは思いますが……それはやはり罪が多いわけでしょうか。

(メシヤ様)人を苦しめるというのは罪になりますが、自分が仕合せになろうというのは本当の欲求です。人をいじめてオレだけというのはいけませんが、人も良くなりオレも良くなるというのは良いです。共存主義です。』

『霊主体従』の順序 物事を進めようとして行く時に絶えず見ておくこと!

『右の如く経(たて)は高いが小さく、緯(よこ)は低いが大きいのが真理である。従って私は此この方針で進んでゐるので、例へば箱根と熱海がそうである。箱根の聖地は高くて小さいが、熱海のそれは低くて大きいのである。又経は霊であるから箱根を先に造り、熱海は体であるから後に造るので、之が霊主体従の順序であるからで、此この通りにすると実に順調に巧くゆくが、少しでも之を狂はせると、必ず故障が起るのは殆んど絶対的といってもいい。』

というふうに書かれておりますので、何かをやろうとした時に巧くいかない時には、この順序が狂っているということです。『霊主体従』の順序が、少しでも狂っていると巧くゆかないということになって来ます。しかし、その通りの順序で進めると巧くゆくのですよ、と。ですから、何か進めようとした時に故障が起きた時には、必ず霊主体従の順序になってないと、これは『殆んど絶対的』とメシヤ様が仰っておりますので、物事を進めようとして行く時には、この『霊主体従』の順序であるかということを絶えず見ておかなければいけないという、そういうことをメシヤ様は教えていただいている、ということであるかと思います。

『霊主体従』は長い歴史に関わる御教え

メシヤ講座no.4 番外編(平成215月その3)

(質問者)教団改革で使われる「御経綸」という言葉は、まるで違う意味で使われていますから。三派分裂だけの、小さな問題を「御経綸」で片付けてしまう事自体、気の遠くなる様な長い時間をかけて我々の生命を今の時代につなげて下さった主神様に対して、大変に失礼な事と感じます。

(楳木先生)この長い長い御経綸があって自分達が存在している、それ故に、私達は、主神様という御存在に絶えず感謝のお祈りを捧げないと、本当の意味で、有意義な人生にはなって行きません。

(質問者)目先の事だけにとらわれると、自分さえ良ければいいという人生になってしまいます。その自分が、どのようにして生まれたのか。それも、父母、祖父母、曾祖父母、ご先祖様という数えられるぐらいの代だけではなく、地球の歴史、宇宙の歴史といった長い視点から見つめようとすると、主神様には、無限に大きい存在で、理解を超えており、ひたすら感謝と畏敬の念を持って、心より崇め奉り祈るしかなくなって来ます。

(楳木先生)例えば、私達が、蛇やトカゲを見て、気持悪いと思ったり、恐いと感じたりするのは、ずっと遡って行くと、恐竜時代に、哺乳類として生きていた頃の、踏みつぶされたりした記憶が遺伝子の中に残っているからだと言われています。という事は、メシヤ様の御教えは、霊主体従の法則というものは、ものすごく歴史の長いスパンの中で、出て来ている御教えだという事なのです。

(質問者)その無限大の規模から伝える御教えを、どうやったらわかりやすく表現出来るのか、試行錯誤された中で、あのようなわかりやすい御教えを私達は頂く事が出来ているという事ですね。物凄く深く、壮大な内容を、その氷山の一角であるちょっとした言葉で書かれたのが現在頂いている御教えであるという風に解釈しています。

(楳木先生)その、深い内容の御教えの真意を説明するのが、布教師の役割なのです。

 

自分自身を振り返った分だけ変わる

メシヤ講座・特選集no.144(平成251月分)

(楳木先生)実は、メシヤ様に繋がると、御教えを求めるようになると、自分自身がやってきたことを振り返ることが出来ますので、その振り返った分だけ“変えていこう”と思うと、変わってくる訳ですね。これがね、『霊主体従の法則』によって変わってくる訳ですので。このことが、皆が、変わっていかないといけないですので、そういう信仰をですね、この出張所を中心にやっていただきたいと思います。

かけがえのない体験から解かる『霊主体従の法則』

メシヤ講座・特選集no.130(平成2311月分)

(楳木先生)これは、御教えからゆきますと『霊主体従の法則』ということになります。受胎は、夫婦の愛の営みによって許されるものではありますが、趣向の変化というところから見ると既に魂が宿っていることが解ります。この魂が本日ご参拝した主神様の分け身魂なのです。その魂が欲するので、母体の食べ物が変化するのです。つまり、魂である霊的なものが主になるのです。そして、それに肉体が従ってゆくのです。こうしたことを『霊主体従の法則』と教えられていますので、どうぞこの機会に覚えておいてください。

『宗教と科学の一致』の根底は神観の確立 メシヤ講座・特選集no.138(平成247月分)

(楳木先生)『宗教と科学の一致』の根底にはその神観の確立がなければなりません。そうでなければ、この度のヒッグス粒子確認の意義も把握することができませんし、今後の方向性も見出せません。また、人類の研究がここまで来たので更なる最小化が目睫に迫っているのです。つまり霊子の領域です。そこに達してこそ『霊主体従の法則』を科学的に理解できるのです。私達は、こうした神観の確立に基づく考え方の、その普遍化に努めてゆかねばなりません。これからも弛まぬ努力を重ねさせていただきます。

(三救責任者)先月は『無機質界』を学びました。『一新紀元を劃(かく)する』との記述について、浜松で次のようにメシヤ講座を頂いております。

「おひかり」なしの浄霊、宗教宗派を超えて浄霊力を授けることが出来るようになったことが、新世紀を迎えたという意義付です。

そして、入会のお世話として、『霊主体従』は教習で皆様方から未信者さんへお話しして頂きたい内容として取り上げておられます。

『一新紀元を劃(かく)する』とは、現在ただ今の取り組み

(楳木先生)9月度も幅広く深い学びを重ねさせていただきました。各支部や各会場の実情に沿った形で繰り広げられたのですが、拝読させていただいた『無機質界』で御記述されている次の内容は殊更感慨深いものがありました。

『以上の如く、此(この)大発見によって、人類に与へる恩恵は、到底言葉や文字で表はす事は出来得まい。従って此(この)事が世界人類に普(あまね)く知れ渡った暁、現代文明は一大転換を捲き起し、人類史上空前の一新紀元を劃(かく)する事とならう。』

この御記述について浜松支部で次のように述べました。

 一新紀元を劃(かく)するということは、21世紀に「おひかり」なしで浄霊力を授かることができるということである。

(楳木先生)それから最後のほう、後ろから5行目に『現代文明の一大転換を捲き起し、人類史上空前の一新紀元を劃(かく)する事となろう』と。

この『一新紀元』ということが21世紀であるということ。

そして、皆さん方に21世紀になったときに、「おひかり」がなくて、『宗教宗派を超えて浄霊力を授ける』ということを、浜松支部を出発点に始めましたね。これが一新紀元をかくしたということです。○○さんわかりましたか?

一新紀元をかくしたのは、「おひかり」がなくても『メシヤ様にお祈りすれば宗教宗派を超えて浄霊力を授けることができる』という、その新世紀を迎えたのだという意義付けをもって生活していただきたいということです。

で、最初にできたのが、この浜松支部なのだというふうに意義付けして進んでいただきたいと思います。

このように、『メシヤ様の御名を唱えれば、宗教宗派を超えて浄霊力を授かる』という御啓示の下に進めてきた現在ただ今の取り組みが『一新紀元を劃(かく)する』ということなのです。

『一新紀元を劃(かく)する』ということが大袈裟ではない証として、9月度も多くの問い合わせがあり、その中から『メシヤ様に直に太く繋がる』姿勢を持って新しく踏み出された方々も大勢いました。

そうした中には、沖縄で支部づくりを目指してくださる方もいました。その方に入会希望者のお世話をお願いすることとなったことから、次のような「入会のお世話について」を取りまとめ、送付しました。

 入会のお世話について

1、入会に際してご理解いただきたい内容については次のメシヤ講座を参照ください。

① メシヤ講座・特選集no.72(平成191月分)

② メシヤ講座・特選集no.73(平成192月分)

③ メシヤ講座・特選集no.74(平成193月分)

④ メシヤ講座・特選集no.76(平成195月分)

2、教修で理解いただきたい御教えは次の通りです。

 霊主体従の法則

  霊体一致の法則

  浄化作用の原理

  浄霊の原理

  夜昼転換

  地上天国建設(自然農法の実施、芸術による霊性の向上)

3、「浄霊力拝受お願い」と「入会申込」についての参照。

  メシヤ講座・特選集no.94(平成2011月分)

  昨年の岡山・出雲両支部の発会式挨拶

メシヤ講座・特選集no.127(平成238月分)『岡山支部』発会式特集

メシヤ講座・特選集no.126(平成237月分)『出雲支部』発会式挨拶

<資格者資料>

【教修を取り次ぐということ】

<意義>

絶対的救済力である浄霊力は、宗派を超えて誰にでも伝授できる時代を迎えた。これは、メシヤ様のご神慮によるものであり、、その恩恵に浴した人々が安心立命の天国的生活を手に入れることは無上の喜びである。メシヤ教を機関として民族、思想、宗派を超えて浄霊力伝授ができることに心より感謝申し上げたい。

浄霊力を身につけるためにメシヤ教へ入会する必要はないが、浄霊力伝授という意義深い取り組みに賛同し、それを支え共に行動し、徳積みを志す崇高な人々もいる。真の意味での「選民」である。その誇り高き人々に入会手続きの説明をすることが「教修」である。

<願い>

メシヤ様のご精神を現代に求め、「時代苦」を救う担い手となり、同時に「時代の中」に活き活きと生きることができる人になるように導く。

<基本的姿勢>

自らの信仰、体験(お蔭話)に基づいて、自らの言葉で誠をもってお取り次ぎする。

<心得>

私達が信仰させていただいているメシヤ教の主宰神は、最高最貴の神様である。メシヤ様は『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかないのである』と教えられている。メシヤ教の御神体が定まった所以(ゆえん)でもある。

故に、既成概念で理解することは難しく、「神様のことは、よく解らない」という態度が素直な、正しい認識と言える。私達が「神様」という言葉を発した瞬間に、その存在を限定し、規定してしまう。そして、そのご存在を小さくしてしまう。教修取り次ぎ者に真摯な信仰姿勢が求められるところである。

また、本教は、他のどの宗教よりも神様の存在を実感することができる宗教である。ご発現される御力が絶大であり、前例のない大いなる救いの業があるからである。浄霊である。自信と誇りと感謝をもって取り次ぎたい点である。

ところが、この浄霊の業も既成概念で捉えた瞬間から、その力を限定してしまう。浄霊は無限の力である。いただいた奇蹟を、ありのままに清々しく爽やかにお取り次ぎすることの大切さがそこにある。

浄霊を取り次ぐ、浄霊をいただく、お祈りする、ご奉仕に臨む、御教えを実践する、それらの取り組みの中で、あるいは日常生活の中で絶大なる奇蹟を許され、私達は神様の存在を身近に認識する。その神様が垂れた御教えだからこそ、真理と信ずるのである。「神の言葉」であることを強く認識したい。

その「神の言葉」をお取り次ぎし、お取り次ぎしつつ自らも学んでゆく、ということが教修であるということを心得たい。

なお、教修は、便宜上七講座に分けて取り次ぐことになっているが、出会いを許されて浄霊をいただき説明を求められた時から教修が始まっていると考えたい。その心構えで接することはもちろん、佇まいを整えてゆくことも大切である。場だけでなく、立ち居振る舞いである。

対象者が浄霊を日常生活に活かし、御教え実践を通して人格の向上に取り組むようになるためには、教修取り次ぎ者自らが率先垂範せねば言葉に力は宿らない。

【教修第一講・宗教について】教修の前提

<話すことの難しさ>

私達が信仰談をする場合に重要なことがある。それは、話す側に主導権があるか、聞く側に主導権があるか、ということである。非常に難しい事柄ではあるが、どのように受け取られたか、が問題である。「どのように話したか」ではなく、「どのように受け取られたか」が優先する。

そんなややこしいことまで考えて取り次ぐのか、と受け止めた瞬間に、新たな問題を発生させている、と判断せねばならない。それほど、教修とは難しいことなのであり、真摯な姿勢が求められるものなのである。

<時代の精神を見つめる>

そこで、聞き手がその人生で育んだ宗教観に関心を払いたい。「宗教は尊いものだ」と受け止めつつも、組織のあり方、運営のあり方に疑問を抱えていることもある。様々な意識をもって本教を見つめていることを充分承知しておきたい。時代の精神もそれに大きく影響を及ぼしている。

現代社会は、人々が総中流意識をもち社会の均一化が進んだと言われたところから「格差社会」が懸念されるようになり、人々の苦しみが「病・貧・争」に整理されるほど単純ではなくなった。

また、若年層で死後の世界を肯定する人が増えている、という調査結果が後を絶たない。幽体離脱現象は科学的に検証されつつあり、癲癇の研究段階で大脳右側頭シルビウス裂に電極を当て刺激を与えると幽体離脱現象が生じた、とする報告もある。神秘体験への関心は高まりつつあるのである。

とりわけ興味深いこととして、豊かな社会、情報化社会の特徴として、超能力、オカルト、神仏を信じる人が多いという報告がある。しかも、理科系の学生やコンピューターの技術者といった意外な立場の人達の間に信じる人の割合が高い。

逆に宗教に最も距離が近そうに見える中高年層は、割合が低い。これには第二次大戦が関係しているらしい。精神修養を強制され、しかもその対象は国家神道であった。それが敗戦によって裏切られた。反面、日本では明治維新後の近代合理主義の台頭と相俟って、成長過程で‘科学する心’の必要性を植え付けられた。

そこから生まれるものは、宗教や信仰に対する不信感であり、「奉仕に対する疑問」、「特定の宗教組織に属することの被服従感」、「自由の束縛感」、「罪意識の自覚は敗北感」であると専門家は指摘する。公衆道徳は反ってこの世代の方が悪い、と指摘する向きもある。

一方、第三次宗教ブームにおける、宗教への入信動機の特徴は、前出の中高年に比べ若年層は、「もっと自分を高めたい」、「世紀末的宗教への関心」、「超能力、オカルトへの関心が宗教に向かう」、「科学か宗教かという対立ではなくて、科学も宗教もという共存の時代認識」、「自己実現の欲求」、「他人と違う自分を見つけ出したいという欲求」ということが多い、と分析されている。

この二大特徴というのは、霊的知識の低さと人間観の未確立が根底にあり、興味本位に流れやすいところから生じる。そして、それらに付け加えて現代人は「履き違えた民主主義」、「経済至上主義」、「マスメディア」から、無自覚の内に視野狭窄状態へと追い込まれている。氾濫する情報に囲まれているにも関わらずである。

<本来の宗教とはどういうものか>

これ等の問題点は、宗教を正しく認識することで打開できる。宗教は人間のみがするものである。当たり前のことであるが、人間以外の動植物はしない。一部信仰の対象になることはあるが、宗教の場は人間生活である。古代の人間生活全ては宗教であった。大きな視座で見つめてみると、いわゆる現在の文化形態というものは宗教から遠心分離的に発展してきたものである。

遡って人類史を見つめてみたい。人類の起源は何時かという疑問に対しては、ネアンデルタール人の遺骨に花粉が付着していた、ということから葬儀をしたのではないだろうか、ということが一つの答えになっている。死者に花を手向けた、ということからである。花を手向けた、ということは、死を悼んだということである。

動物の死骸を日常生活で見付けることはできない。交通事故死したものやペット、家畜、動物園で飼育していたものの死骸は目にするが、それ以外は目にはしない。動物は本能的に死期を知り、自ら場所を決めて葬送を執り行なうからである。

しかし、人は自分以外の者に葬送を執り行なって貰う。葬送を執り行う際に死を悼む言葉を掛けるが、この言葉を持つところが人類の起源と考えられる。言葉を持つことで思考することができ、感情も表現することができた。ではどうして言葉を持つことができたのであろうか。

およそ600万年前にアフリカのジャングルから草原へ下りて来た類人猿がいたことになっている。木にぶら下がらなくなったので、やがて二本足歩行をするようになる。このことにより画期的な進化を遂げる。前足に脳を乗っけているうちは脳自体を大きくできなかったが、二本足歩行をすることにより脳を後ろ足へ乗っけるようになると、脳を大きくすることができた。また、呼吸法も変わり、そのお蔭で言葉を発することができるようになったのである。

この言葉を持つことにより、思考するようになった。利便性を図る道具を考案することもできるようにもなったが、何と言っても、死を悼み、死者を弔うことを行なうようになった。これが人類の始まりであり、動物との決定的な違いである。人間生活が宗教の場なのである、という所以である。

『神は何万年前から細大漏らす処なく、慎重綿密なる準備をされていた』(文明の創造・前回掲載分)という御教えと符合する。ネアンデルタール人は20万年前から3万年前ということになっているからである。

<葬儀を考える>

「人」の始まりは葬送という宗教儀式を執り行なったことからである、とすると「葬送とは何か」ということにも関心が寄せられる。そこで葬送について触れておきたい。

葬儀においては、おおよそ死者の悪口を言わない。死者を讃える。これは、死者の生き様の中で讃えられるべき事柄を述べ、「あなたの素晴らしきところを受け継ぎ、今後心掛けてまいります。だから安心して旅立ってください」と誓うのである。当然ながら、反面教師的なところもある。それは「受け継がないようにしよう」と自らに静かに誓うのである。

実は、こうしたことを連綿と積み重ね、遺伝子に刻み、進化を誘ってきたのである。葬儀により人類は進化してきた、といっても過言ではない。そうすると、故人の意思を大切にすることが葬儀の本質的意義ということにもなる。

しかも、その延長線上に宗教を中心とした人間生活が形成されてきたのである。

<現在の文化形態は宗教から遠心分離的に発展したもの>

そこで再度、現在の文化形態というものを見つめてみると、宗教の要素が遠心分離的に発展してきたもの、と捉えることができる。

たとえば、現在私達は法律というものを活用して円滑に社会を運用しているが、法律とか政治というものは、そもそも宗教儀式から生まれたものである。

古代生活では、集落の人々を守るために「あの山には毒蛇が生息しているので、立ち入ってはいけない」という掟(おきて)を作る。これは、一日の歩行で往復できる距離が原則となる。そうした集落で、若者がその禁足の山へ立ち入り毒蛇にかまれ瀕死の状態で運び帰られたとする。

この場合、祈祷は後回しである。まず、集落の全員が集められ「本日この者は掟を破りあの山へ入ってしまった。そして毒蛇に咬まれた。二度とこのようなことをしないと誓うか」と問い掛けるのである。全員が誓ったならば、祈祷を開始する。解毒と体力の回復を働きかける。

この「掟」が「法律」へと進化し、事故の再発を防ぐ「誓い合い」が「政治」へと進化した。また、「解毒」や「体力回復」が「医学」へと進化したのである。

また「集落の言い伝え」が、「民俗学」や「哲学」という形へ。解毒は「化学」へも進化し、「星座」による位置確認が「天文学」というように、「道具の発明」から「科学」などなど、宗教の要素は細分化され発展を見た。

スポーツや芸能、音楽にしても村祭りから現在の形態が生れたのである。このように宗教というものを中心において、次第に遠心分離的に様々な要素に細分化したのである。そして発展してきたのである。ところが同時に弊害というものも生れている。

根本にある宗教の忘却である。現代の諸問題は根本にある宗教を忘れたために発生している。故に諸問題を解決するには根本の宗教を思い出すことが不可欠なのである。実は、本来的に信仰をするということは「文化の根本にあった宗教を思い出し、社会の諸問題を解決する」営みなのである。そのことを入会する前提として、認識していただくことが肝要である。

<相手の立つ位置>

時代の移り変わりに対する整理をし、「宗教をするということは何か」を再認識していただき、そのことにより、現代という時代において信仰生活をする意味を見い出していただく。そしてそのことは、その人の人生を評価することでもある。

初めて宗教というものに触れた人は「本来の人間生活」を学び、「人生に意義を見い出す時を迎えた」ということである。今まで他の宗教を経てきた人は「苦労し、努力した結果、最高位の神様へ辿り着いた」ということなのである。

とは言え、冒頭述べたように宗教に対する様々な概念を抱いていることも事実である。これは多分に宗教団体という組織に対するものである。メシヤ様が『本教には、キリスト教、神道、仏教を始め儒教も、哲学も、芸術も、悉く包含されている』と述べられている真意はここにある。

また、この御教えは、人類が「より良い人生」を求めて模索したものの最高峰に本教が位置することを示されたことでもある。従って、本教への入会を「改宗」と考えてしまうと、非常に狭い捉え方となる。

相手の人生が辛いものであったか、苦しいものであったか、ムダと思えるものであったか、それとも有意義なものであったか、理想的なものであったか、人様々である。しかし、御教え通り、この世の中は全て「必然」で成り立っており、一つのムダもない。一人ひとりの人生の中で、段々と「心が求めていたもの」「魂が求めていたもの」へ近づき、今、出会えたのである。

もとより宗教価値があらゆる価値の最高位にある。最高位の価値観を身に付ける段階に入ったことを評価した上で、「入会とは人生の好転」であり「さらなる進展」であることを伝えたい。

以上を認識した上で、『信仰読本』の「(一)序―宗教について」を自らの信念と言葉でお話をする。

【教修第二講・世界救世(メシヤ)教とは】

<共に拝読する>

第二講は、『開教の辞「世界救世(メシヤ)教の誕生に就(つい)て」』と『世界救世(メシヤ)教 教義』という御教えを共に拝読する、ということで十分である。

<拝読の仕方の工夫>

共に拝読して、相手の理解度に応じて補足を加える。真理を追究する作業なので、自分の信仰に懸けて対応する。

大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。次の段階として、自らに置き換えて拝読する習慣付けを目指す。御教え拝読というものを相手は初めて経験する場面なので、最初の取り組みで御教え拝読の方向性が決まってしまう。それだけに大切なのである。

御教え拝読は、真理を学ぶ、ということであるが、最大の願いは学んだ真理を生活に取り入れて実践し、幸福になってゆく、ということである。何故なら『生きている人間を幸せにしなければ何にもならない』と断言されているからである。

それ故に、『信仰即生活』という観点から御教えというものを拝読する場合、その内容を全て自分に置き換えてゆく、ということがもっとも大切な作業である。

<世界救世(メシヤ)教 教義>

「世界救世(メシヤ)教 教義」をトータルで理解していただいた後、自分に置き換えた場合にどのように読むことができるか、ということになる。

ここで例題を示すので、臨機応変に活用して考えてみていただきたい。

<抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである>

この部分を「そもそも我が家の先祖は」としたり「私の夫は」と置き換えてみると、「そもそも我が家の先祖は我が家を天国にするように・・・・・」とすることができる。また、「私の夫は結婚当初より我が家を天国にするように・・・・・」とすることもできる。

もちろん妻であっても、両親であっても、子供であっても、ご自分であっても結構である。

ここでは「私の夫は」として、各文章を当てはめてみると、まず「そもそも私の夫は、我が家を天国にするために私と結婚した当初から生活しつつあることを私は信ずるのである」と、することができる。

そのことを信じて結婚もしたのであるし、夫婦生活を営んできたのである。いかがだろうか。

<これに対して人間を神の代行者とされ給うと共に、一切万有は人間の為に造られたものである>

そうすると、「これに対して私を夫の代行者とすると共に、家事一切は代行者たる私のために用意されたものである」と続く。

煩雑な家事も雑務も全て「我が家を天国にする」ためにこなすのである、と受け止めているのである。

<故に今日までの人類史はその為の準備工作に外ならない事を信ずるのである>

「故に、今日までの夫婦の道のりも、結局は天国を造るための準備工作であった、と信じている」

それまで幸福感に満たされていたか、あるいは苦労の連続であったか、いずれにせよ「我が家を天国にする」ための準備段階であったのである。そのように受け止めている。

<従って、神はその時代時代に必要なる人間と、必要なる宗教を顕(あら)わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである>

「従って、主人と共に子供を儲けて、共に人生の指針を得て生活してきた」

そうであるからこそ、「我が家を天国にする」ために、必要なる子供も許されたのである。しかもそれぞれの使命をいただいているので、時には親の言いなりにはならない場合もある、と考えることができるというような受け止め方になる。

また、ご近所の方も姑などもそれぞれ使命を持って存在している。皆役割を持って生活しているのである。

<後半 ― 信仰に出会った意義>

こうした受け止め方の上に後半を拝読すると、「我が家を天国にする」ためにメシヤ様とご縁をいただいた、という入信の意義がより明確になる。

つまり、まとめは「メシヤ様とご縁をいただくことで私が我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということになる。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識を共有したい。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そのために、第三講のテーマはメシヤ様である。さらに学びを深めたい。

お世話とは、メシヤ様の愛に包まれていただくことである。それを可能にする重要課題は、御教えを自らに置き換えて拝読する、という姿勢を共に持つことである。重ねて肝に銘じていただきたい。

【教修第三講・主宰神とメシヤ様】

<信仰行とはメシヤ様の追体験>

第二講では、「我が家を天国にする」ために「メシヤ様とご縁をいただいた」という入信の意義がより明確になった。「メシヤ様とご縁をいただくことで自らが我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということであった。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識も共有した。

その背景には祖霊のお導きもあり、また当然ながら自らの魂が希求して、やっと辿り着いたということもある。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そこで、メシヤ様のお姿を客観的に見つめる作業が不可欠となる。

<共に読み、確認する>

第三講では「信仰読本」の「四、主宰神」と「五、教祖」を共に読み合い、相手の理解度に応じて補足を加える。第二講同様に大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。補足を加える上で心しておくことを確認したい。

信仰生活で誰もが気になるのが、神様への祈りの内容である。祈り方、祈る姿勢と言ってもよい。これまでの神様への既成概念によって勘違いや取り違いを起こしている場合があるので、相手に安心感を与えることを心掛けつつ、自らの体験に基づき神様へ真向かう在り方を取り次ぐ。

主之大御神様のご存在を既成概念で捉えようとすると、そのご存在を限定してしまうことになるのである。既成概念とは、例えば「罰(ばち)が当たる」といった躾けられ方をされたり、「怨念」を封じ込めるために神社仏閣を建立したとする解説書を読まされることを通して刷り込まれる概念である。それらは最高位の神様のお姿とは程遠いものである。

『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである』というメシヤ様のお言葉を心にして、御神体に向かう姿勢をもちたい。

メシヤ様というご存在―『私の名前を呼びなさい』

「教祖」の項で、メシヤ様というご存在を学ぶ時に大切なことは、大きく高い存在ではあるが、正しい願いは必ずお聞き届けくださるということである。正しい願いとは何かということを知るために御教え拝読がある。御教え拝読が日常生活に定着するように導きたいところである。

また、『困った時、助けてほしい時は、すぐその場で私の名前を呼びなさい』とメシヤ様は仰ってくださっている。安心感を与えてくださるお言葉である。身近にメシヤ様と共にある生活を心掛けていただきたい。

空理空論ではなく、実在する神様を身近に感じながら生活するという『信仰の醍醐味』を味わっていただくように導きたい。

メシヤ様というご存在―『神様にも感情がある』

その上で、私達が忘れてはならないのは『神様にも感情がある』というお言葉である。これは、“困った時の神頼み”式のあり方ではなく、常日頃から絶えず自らを顧みつつ生活する大切さを説いてくださっているのである。

そして、何処に身を置いていようとも、神様の御心を求めて、御心に適う生活を送ることが大切なのである。神様と共にあるという安心立命の生活を実現できる歩みである。

新たに信仰の道を歩み始める人に、特に確認しておくべき内容である。顧みる鑑とはメシヤ様のご精神である。

メシヤ様というご存在―『私の心が共通し拡大されること』

私達は自分が救われるだけに止まらず、この地上が天国になることを切望している。

地上天国とはメシヤ様の御心が共通し拡大されることである、と本文中に引用した『私というもの』で示されている。神様である身でありながらも、尚且つ実践されている内容である。繰り返し拝読したいところである。

しかも、メシヤ様は生涯一貫して実践されたことがある。幾つか列記してみると、

・挨拶をする・嘘をつかない・時間を守る・約束を守る・整理整頓をする

・物を大切にする・無駄をしない・人の話を根気よく聞く・言葉を大切にする

等々である。やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な、至極当たり前のことを途中で止めることなく、継続されて取り組まれたのである。救世主として偉ぶることなく、人としての心掛けを貫かれた。

人間の理想像として、特にそのお姿を鑑としたい。

メシヤ様からいただくもの

私達の入会までの苦労は、メシヤ様が教祖となるまでのご苦労には比べようもないが、少なくとも救いの力と言葉を身に付けさせていただく準備期間であると捉えた時に、どれ程救われる思いに浸れるかということである。

ご縁をいただくまでの苦労が大きく感じれば感じるほど、「だからこそ、メシヤ様に辿り着いたのだ」という繋がりを確認していただくことが欠かせない。

そしてまた、教祖となる方は苦労して得た「救いの言葉」を絶対に忘れない、ということである。私たちも同様「忘れない」ということが最重要課題なのである。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」であってはならないのである。

メシヤ様の追体験をさせていただく際に、大前提として救いの力である浄霊力を授かった感動、感謝を忘れないという心構えがなくてはならない。

メシヤ様の信仰概念

最後に、メシヤ様は『(他の宗教に)何時転向しても差支えない』と仰っており、自由なる信仰を強調されていることを確認しておきたい。同時に、他宗教の教師(牧師や僧侶等)であっても、それを止めることなく入会しても良いということである。

全く自由な雰囲気の信仰を求められたのである。冒頭「自らが我が家の救世主となり・・・」という表現を用いたが、救世主であったとしても独善的ではなく、常識的な普通人としてのご日常であったことを肝に銘じておきたい。

そうしなければ、変に宗教臭くなり、如何にも思い込みのきつい雰囲気、一方的な頑なさや偏屈さだけを漂わせてしまう。

ま た一方、宗教のあるべき道について『宗教は霊肉を完全にする。それ丈(だけ)やればいい』とメシヤ様は簡明にご教示されている。何と判り易いことであろうか。人々の心と身体を真に健康にすることを願い、そのことに貢献する。

浄霊を中心にして霊の曇りを解消し、薬禍薬害を知らせ自然農法、自然食品を普及し、心身を健康にして差し上げる。更には、霊主体従の法則、浄化作用の原理などの御教えを宣べ伝え、幸運者へと誘う。「芸術による天国化」、「芸術による人格の向上」を唱導し、地上天国建設に寄与する。

何と心躍る行為だろか。それを共に取り組んでゆくことを通して自他共に幸福へとなってゆくこと、それが入会の意義であることを確認したい。次回から、その具体策に触れてゆく。

≪浄霊力伝授と入会について≫

メシヤ様の御光を全ての人に

メシヤ教代表 楳木和麿

1.対談記を再読し覚醒させられる

対談記を掲載したことを契機に、改めてメシヤ様の内外への広報を拝読させていただきますと、世界救世(メシヤ)教を開教された御意図と御神業推進の御構想を再認識させられます。当然のことながら、その甚大さには計り知れないものがあります。

また、平和世界を希求する御心が強烈に伝わり、覚醒させられる思いがいたします。深奥なる人類愛を思い知らされ、感謝の想念が拡大してまいります。

もとより御教えを拝読させていただくと、今日までの人類史における数々の疑問が氷解し、各宗教が担ってきた役割をつぶさに把握させていただけます。真理を知る毎に喜びで満たされてまいりましたが、この度の対談記により、更に今後の方向性が明確になり、御神業へ向かう情熱が沸々としてまいります。

前回の「メシヤ講座・特選集」でも触れさせていただきましたが、『従来のような宗教観念ではとうてい理解できない、もっと神秘にして※幽邃(ゆうすい)な御神力がはじめて登場することになる』というお言葉は、大変な重みをもって私達に迫ってまいります。

浄霊を通していただく奇蹟を既成概念で捉えてしまうと、まったく異なった解釈になる可能性があります。それ故に、御神業の担い手である私達自身に、まず、『宗教改革』を求めておられている気がしてなりません。

そして同時に、この御心を受け止めた者に対して、御神業推進を託されているのです。御神業を託されたことを自覚した時に入会という運びになります。

順次掲載しているにもかかわらず、今回の対談記には『脅(おび)やかされ、助かりたい為に入信するのは自己愛的信仰で本当のものではない』というお言葉が登場し、御神慮とも思えるように今回の話にジャストタイミングでした。それ故に、私達に自戒の念を持つように再確認されているようにも受け取れます。

また、この対談記に「浄霊力伝授」と「入会」の違いを見い出すことができるとも言えます。

※景色などが奥深く静かなこと。また、そのさま。

.浄霊力伝授

本年も大勢の方々に「浄霊力伝授」のお取り次ぎをさせていただきました。

浄霊力は、メシヤ様へ奉告申し上げ、メシヤ様にお祈りした瞬間から行使できますので、手続きがあまりに簡単過ぎて誰もが驚かされます。絶大なる御力を伝授させていただくにも拘(かかわ)らず、勿体ぶったところがありません。そこがとにかく素晴らしいのです。

そして、熟練者であろうが、初心者であろうが、浄霊の取り次ぎにより日々鮮やかな奇蹟を目の当たりにさせられます。とりわけ病気に対して顕著に体験できるのですが、奇蹟の発露については、次のように御教えくださっております。

 『これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明である為合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として低科学の頭脳を以て浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚歎するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これに就て何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴しい力が、何故私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。』≪『浄霊は科学療法なり』全文へ≫

メシヤ様は『現代医療は根本が不明であるため合理性がない低科学である。』とご指摘されていますが、11月30日付の読売新聞に掲載された国立がんセンター名誉総長垣添忠生氏の論調を読むと、更にメシヤ様のお嘆きが聞こえてきそうです。

何故かと言いますと、氏は世界保健機構(WHO)の2007年の統計で全世界で年間に癌になる人は1100万人に上るという数字を示しつつ「がんになる人を減らす、がんで亡くなる人を減らすことはもちろん最重要課題である。」と述べるにとどまり、「がん経験者の支援を議論したい。」として論説を展開したのです。

これには驚かされました。「最重要課題」と言いつつも、癌に対する根本的な話には言及していません。百歩譲って、支援について考えるとしても、「がん経験者は、医学的にはがんの再発や転移の可能性に関する定期検査、治療に伴う副作用や後遺症への対処、当該がん以外の別ながんになる可能性、さらに、糖尿病とか高血圧といったがん以外の病気の管理など、実に多面的な医学的対応を必要とする。」と述べています。

「がんの再発や転移の可能性」は、「最重要課題」と一致するものですから最初から言及しておかなければならない根本的なことなのです。また、「治療に伴う副作用や後遺症」は、その名の通り医療行為そのものが引き起こす症状なのです。

まさに『合理性がない低科学』とのご指摘通りです。

私達は、メシヤ様から浄霊力を授けられると同時に、これまで「メシヤ講座・特選集」で論じてきたように、癌をはじめとする病の根本原因を教えられております。この上なく有り難いことです。

それ故に、浄霊力を拝受いただいたほとんどの方々が、その後各支部の月次祭へのご参拝やメシヤ講座へのご参加を継続されています。確実に体験を積まれると共に御教えに基づいた学びも深まりを見ております。大変喜ばしいことです。

 

3.入会とは真の生き甲斐を手に入れること

ところが、行事の中で嬉しい珍現象も起きています。それは、改めてメシヤ教に入会したい旨を申し出られる人があった場合、他の人から「あなた、まだだったの?」と声を掛けられる場面があるのです。しかし、声を掛けるその人自身も未だに入会手続きは取っておらず、「浄霊力拝受」申込書を提出し、継続して行事に参加していることで何時しか入会したと思っていたのです。

そうしたことが頻繁に起きることから、勉強会等で「もう一度、浄霊力伝授と入会の違いを説明してください」というご要望が増えております。メシヤ様や浄霊のことを初めて知る人が急増しているために起きていることですが、こうした時こそ冒頭のような話が大切になるのです。

浄霊力は、国籍を問わず、宗教宗派を超えて、希望した瞬時に伝授させていただいております。大変素晴らしい御力を無償で賜わる訳ですから、幅広く活用することを強くお勧めしています。

浄霊力伝授に対して入会という段階は、浄霊力伝授する取り組みを支える側に回るということです。その意味合いから、自発的に申し出ていただくものであり、こちらから強く勧めるという性質のものではありません。

しかし、体験を重ね、学びを継続してまいりますと、浄霊に対する概念が変化してまいります。高まりを見て深まりを伴ってくるのです。御教えには次のようにあります。

『本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、其(その)因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言う迄もないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。』≪『浄霊と幸福』全文へ≫

こうした御教えが「なるほど!」と思えるようになってゆくのです。浄霊力を拝受したい動機は千差万別ではあっても、学びと体験の積み重ねにより、浄霊観は本来の広がりを見てまいります。また、新たに浄霊力伝授を他の人に勧める行為は、人々を幸福に誘うことができる取り組みですので、真の生き甲斐を自覚することにもなります。

それ故に、浄霊を活用しながら、おぼろげに解りかけたことを整理していただく作業が大切になります。御教えの確認作業です。

 

4.幸福の原理―霊界の構成と霊層界

『浄霊とは幸福を生む方法である』ということの裏付けとして『霊の曇りの解消作用』というお言葉をいただいていますが、浄霊をいただき奇蹟を体験したら人生観の根底に霊界の存在を置いていただきたいのです。

メシヤ様は、幸不幸の原因と霊界の関連性について次のように御教えをくださっておられます。

『人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態が其侭(そのまま)霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命の其根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、之を分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外は如何なる神様でも、百八十の中のどれかの段階に居られるのである。右は経(たて)を曰ったものであるが、今度は緯(よこ)を曰ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国迄それぞれ異(ちが)っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段の其又下の二十段に居る場合は、最低地獄に相応するから、之以上ない程の苦悩に満ちた世界で、之が体に映って苦境のドン底にある訳である。又其上の二十段に上ると幾分楽になり、其又上の二十段はもっとよくなるというように、夫々(それぞれ)の段階一段一段其苦楽の異うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界(ちゅうゆうかい)、八衢(やちまた)であるから、現界に相応するので、其又中から上の六十段へ入ると、此処(ここ)は天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。』≪『浄霊と幸福』全文へ≫

このように霊界の構成をお示しいただいていますが、霊界の段階に位置する場所を『霊籍』と教えられております。人の運命は、その霊籍の位置によって変化すのです。

では、その霊籍はどのようなことで変化するのでしょうか。メシヤ様は、幸福の原理として次のように御教えくださっております。

『そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕(お)ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界に於ける千古不滅(せんこふめつ)の鉄則であるから信ずる外はない。』≪『薬が不幸を作る』全文へ≫

幸不幸を左右する『鉄則』が霊界に存在するのです。

次には、霊の曇りの発生源として御教えくださっているところがありますので、引用します。

『では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、之は誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深い処に大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在迄も旺(さか)んに使用している彼(か)の薬剤である。といったら何人(なんぴと)も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。即ち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界に於ける地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆(しゃば)となったのである。』≪『薬が不幸を作る』全文へ≫

この御教えに触れると驚愕する人も多いのではないでしょうか。

『薬毒論』は、私達の健康上の問題だけでなく、幸不幸にまで深く関わってくるということですので、御教えに初めて触れる人には青天の霹靂(へきれき)とでも言える内容です。この御教えを人生観の根底に据えていただきたいものです。

 

5.霊主体従の法則

さて、次に認識していただきたい御教えに、霊界の存在に基づく法則である『霊主体従の法則』があります。

人生観の根底に霊界の存在を据えていただき、実生活の中では『霊主体従の法則』を絶えず意識していただきたいのです。『霊主体従の法則』については次のように御教えをくださっております。

『そうして現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、凡ゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附かなかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていた凡ゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。』

≪『霊主体従 』全文へ≫

ここでは『霊主体従の法則』は『万有の法則である』と示されております。それ故に、日常生活で普段に意識しておくことが、これまた幸福の絶対的条件と言えます。

そして勿論、信仰生活上でも不可欠の考え方と言えます。大切なところですので、もう少し引用させていただきます。

『右の如く、人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。先ず前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂(いわゆる)魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿るヽ(ちょん)である。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其侭心を通じて霊へ反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異(ちが)う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するのである。』≪『霊主体従 』全文へ≫

 

6.霊体一致の法則と浄化作用の原理

上記の御教えは、次のように続きます。

『次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而(したがって)、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、この固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。』≪『霊主体従 』全文へ≫

『霊主体従 の法則』と共に『霊体一致の法則』も、日々意識していただきたい御教えです。この法則については、先ほどの『薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。』という論説でご使用になっているのでお判りのことと思います。

それ故に毒素を溶解し排除する浄化作用が大切になります。次の御教えをご覧ください。

『以上の如く人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯(よこ)の作用であり、後者は霊主体従の経(たて)の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭(ふっしょく)すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。』≪『浄霊は科学療法なり』全文へ≫

浄化作用として考え方を整理すると、一見病気として暗く恐ろしく捉えられる症状は、実は毒素を溶解し排除する作用なので有り難い現象だと言えます。

人体を正常に維持してゆくためには、なくてはならないものであることから、「浄化作用は創造主の愛の発露である」と言えます。そして、霊の曇りを払拭(ふっしょく)する浄霊は更なる愛の発露と表現しても良いくらいなのです。