医学革命

 

『文明の創造 科学篇』をメシヤ講座で読む

『医学の解剖』の項 

医学を誹謗する考へは毫末もない

今日の御論文を拝読していただきました。それで最初の三行目の『と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。』というところですね。メシヤ様の御心というのは医学を誹謗(ひぼう)するために、この御論文を書いているのではないのだ、どこまでも真の医学をみんなに目指してもらいたいために指摘しているんだということがしっかりと腹に入っておかないと、いけないということですね。(三重・大阪)

それで、世界〇〇救のある教団の現状をみてみますと、病気になった時にまず最初に「医者に診てもらいなさい」と言う話が出てくるのです。医者に行きつつ浄霊している人が多いと思うのです。何でこういうことになってしまったのかというと、あまりにメシヤ様御在世当時から奇蹟が多かったので、メシヤ様のこの御論文で『別段医学を誹謗する考へは毫末もない。』とおっしゃっているのにも拘わらず、浄霊をして奇蹟が出ると、当時の先達の方々は大勢の方々を救ったのですけれども、どうしてもメシヤ様の教えを実践していかなければとして、〝一生懸命やっている医者達を馬鹿〟にしたりとか、〝何にもわかっていない〟だとか、〝我々の方がずっと素晴らしいのだ〟とか。こういうふうな気持ちになりがちなわけです。

これをメシヤ様は戒(いま)しめられているわけですけども、しかしどうしてもみんなから「先生。」「先生。」といわれたり、「先生のおかげで救われた。」と御礼の言葉とか御礼をしたりして、本当はメシヤ様の御力を取り次いで奇蹟がでたのですけども、どうしても〝先生の力が強い〟だとか・・千人とか二千人とか一万人とかいう教会になってくるとそういう話になってしまいます。

こっちが奇蹟が出ていて、医者では治らないというとどうしても誹謗(ひぼう)する形になってしまいます。これがズーッと進んでいくと一生懸命研究している人達の努力というのがわからなくなってきます。これが譬(たと)え話でいいうと「亀とうさぎ」の話になります。うさぎとは浄霊で奇蹟がでていることです。科学的にコツコツコツコツどうしてこんな病気が起きるのだろうかと研究している人達は亀のようだけども少しずつわかってくる部分もあるわけです。

奇蹟がでている人がみんな人を救いたいということでメシヤ様に繋がってきてそして一生懸命やっているのですけども、実は驕(おご)りがでてしまったり、他の一生懸命やっている人達よりも自分の方が神様に近い偉いということがズーッとくると、科学的なことでいろんな病気のことを解明している人達の方がある日追い越していってしまうのです。追い越される時に気づかないでいると、浄霊力までだんだん無くなってくるのです。驕(おご)りも広がっていくのです。

さらにメシヤ様が御昇天になられて組織運営が中心になっていきますと今度は医療対浄霊というような対立関係まで生まれてくるのです。

だからこの『誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。』とおっしゃっておられることを、教団にいる人間程しっかりと肚に入れておかないといけないというところがあります。(三重)

 

メシヤ様を信仰する信者の方が時代遅れの現状

そして、そこから下の方へ拝読していきますと、医者の返事の仕方が『「入院すれば治りますか」と訊(き)くと、「それは請合へない」』とか『実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外れる事の、如何に多いかも医家は知ってゐるであらう。』とあります。

 

インフォームド・コンセント

ここを読んだ時に、現代の医者が医者達のグループが、やっとメシヤ様のところに追いついてきたということですね。だから昭和二十七年当時、メシヤ様が医者に対して訴えていたことが今医師団がやっと追いついてきて、「インフォームド・コンセント」に取組みだしたという事です。

『撞著的な返事はするな』とメシヤ様はおっしゃっておられるのでね。だから医者が「あなた、こうだからこうしないといけないよ」と言ったら、「その薬を飲んだ結果、改善することとその薬が私の体に影響を与える、大まかに言うと副作用というのはどういう形で出てきますか」と細かく聞いて、細かく知った上でその治療を受けないといけないというのが「インフォームド・コンセント」という考え方ですね。それが出来ない医者というのは、絶対その医者に医療にかかってはいけないというふうに、今の時代の流れとしてはそういうところまでいっています。

しかし、多くの教団では全く信者さんにそういう指導をしていかない。「医者の言うことを聞きなさい」ということは言うけれども、あるいは「医療拒否はしてはいけない」ということは言うけれども、医療に掛かる上での姿勢というものを全く指導してないところに大きな問題点があります。だから、メシヤ様に繋がらないでも、親戚、知人の人達が医療に掛かろうとした時には、「お医者さんに徹底的に質問しなさい」と。そして「全て納得した上で手術なり、治療法を受け入れなさい」というアドバイスをしていかないといけないわけですね。取り分け癌の場合には、最低三つの病院あるいは三人の医者に聞いて、三つの病院共、「手術しないといけない」と言われた場合は手術を受けなさい、と。こういうふうに言うのは、これはメシヤ様の信者に関係なく、今の世の中で時代の先端を歩んでいる人達は、そういう判断をしています。

一人の医者から「癌だからすぐ手術を受けなさい」と言われても、絶対手術を受けてはいけないというのが今の世の中の常識です。医者の一人だけの話を聞いて、治療法とか対症法を決めてしまうということほど時代遅れはないわけであってね。そんなところが、見えてない教団があります。これは指導者達の大変な勉強不足があるわけなので、その人の下で動いている人たちの目をどうか覚ましてあげていただきたいと思います。

 

メシヤ様は科学を重視された

それで、メシヤ様は、そういう質問に対して曖昧な点とか、それから機械で調べるとか、薬品で調べてるとか言っても、どうしてもメシヤ様は『科学性に乏しい』とご指摘されております。メシヤ様はどこまでも科学性ということを追求していましたね。だから他の論文を読んでいくと、いわゆる神(かみ)科学だというふうにメシヤ様は説いているのは、どこまでも科学を重視しているということです。(岡山)

このことをぜひ気づいていただかないといけません。そのために『文明の創造』を世に出してしていこうとしている最大の理由があるのだというふうに受け止めておいていただきたいと思います。

今の話は浄霊を抜きにしての話ですからね。本当はそのような状態になった時には浄霊を中心にして、どこを浄霊すれば御守護いただけるかという話をしていかないといけないですね。(三重)

 

浄霊に科学性を持って取り組む

『余りにも科学性が乏しいと言へよう』と御指摘になっておられます。これはメシヤ様が〝科学的にきちんと説明できないといけない〟というお気持ちを持っておられるということです。それが浄霊と浄化論、薬毒論は『神科学だ』とおっしゃっておられる所以です。『神様が示された科学である。それに基づいて病気を治していく。』というメシヤ様の御心を汲(く)んで、科学性ということを受けて、我々はいろんな情報を手にして進んでいかないといけないと思います。

さっきの本は癌のメカニズムまで図式で書いてくれていますから。癌のメカニズムというのは科学物質が加わった場合と、それからみなさん方に校正していただいた『文明の創造(三)』に真症癌の理由ということが書いてあったでしょう。蛇が呑(の)み込んだり、殺されたその恨みが原因だと。そうするといくら治療しても治らない痛みとか癌性のものとかあるでしょう。それはもうそういうところまで診て、そして前々生のところまで解決する気持ちで取り組んでいかないと真症癌は治らないということです。

ですから二面性を持って「化学物質によって癌化した細胞を治す」場合とそれから「前々生から来ている病気を治す」という取組というのは基本的に浄霊というのは一緒なのですけども前生の認識、前々世の認識からきちんと人間のいわゆる霊性が高まっていく。本来の人間になっていくという取組をしていかないといけません。そういう点でこの科学性というところは良くマークを入れておいていただきたいと思います。(三重)

『科学性』ということが御論文の中に随所に出てきます。浄霊とか浄化作用の原理は、『神科学』だとおっしゃっています。メシヤ様は、浄化に対しても、どこの毒がどう溶けているからこういう症状が起きているので、その溶けている場所を浄霊したらいいんだ、というふうに、非常に細かいです。ということは科学的な説明をしているんだということです。それを今回は御論文で、今の医学を一言にして、『科学性が乏しいと言へよう。』というふうに御指摘されているわけですので、そうしたところも心に止めていただきたいと思います。(大阪)

 

【御教え】『文明の創造』宗教篇 癌病(昭和二十七年)

『之から真症胃癌の原因である憑(ひょう)霊(れい)の事をかくのであるが、此(この)霊は殆(ほと)んど蛇の霊である。蛇が其(その)人の前生の時か又は祖霊に殺された為に、其(その)怨霊(おんりょう)が恨みを返へさんが為憑(かか)って苦しめるのであって、此(この)症状は主に腹部全体に亘(わた)り、形は小さいが蛇の如く、或時は丸く、或時はクネり長くなり、恰度(ちょうど)泳ぐやうに移動するのである。』

 

メシヤ様の御心に沿うには薬理学の研鑚が必要

メシヤ様御降臨祭で紹介しようと思っているのですけども今わかりやすい本が出ていますのでね。「薬が効く過程」ということを図解して解説しています。例えば口から入った場合には小腸から吸収されて門脈に入って門脈から肝臓に入っていってそこから全身にわたるという薬のルートということをわかりやすく説明している書籍があります。信者さん方に読んでいただきたい薬理学の本とそれから皆さんをお世話する側の人に読んでいただきたい、たとえば看護師さんの試験とかに出てくるような内容の本とかね。皆に理解していただきたいと書かれた本が最近良くでているのでその中から皆に見ておいていただきたいという本があります。(三重)

「薬理学の基本がわかる本」、これは信者さんに是非読んでもらいたい本で、専従者的な方とか、これから人を大勢救いたいという方は、「これならわかる薬理学」という少し専門家が読む方の本を紹介します。(大阪)

世間の人達は薬なら薬の効き方と解毒していった時に解毒から排泄する過程まで薬理学では学ぶので、排泄する時にどのように排泄するかということを解説を加えています。ということはメシヤ様の御教えを読んで薬毒論を知っている人よりも、そのメカニズムをこのような本を読んだ人の方がよりわかりつつあるという時代を今迎えているのです。

そうすると、布教所の先生や責任者達がこのことを勉強していなければ略(ほぼ)信者さん方に曖昧(あいまい)な伝え方しかできない時代を迎えてしまっているということですね。

メシヤ様の御心に基づいて日々研鑚を重ねている専従者でなければ、〝信仰していてもどうしてもメシヤ様の御心からずれていった方向へ行ってしまうのだ〟ということがある、ということを知っておいていただきたいと思います。(三重)

 

『捉われる』『他を顧みない』は自分への問いかけ

それから次の箇所ですが、

『現代医学の何処(どこ)かに、一大欠陥がなくてはならない筈(はず)であるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。』と書かれていますね。この部分は医者に対する批判であるのですけども、同時に自分に対して問いかけてみるお言葉であるというふうに考えておいてください。要するに『捉われる』ということと『他を顧みない』、これは問題解決の上において問いかけるに不可欠な取組であるという事です。

要するに問題が起きるということは何かに捉われているから問題が起きるわけです。ですから常に捉われてはいないのかということを考えていかないといけません。

自分が小さいころから成長する過程において親から言われたこと。学校で言われたこと。それから友達から言われたこと。そういったことが自分の中に捉われとして残っている部分があります。この捉われとして残っている部分があると、一つの問題を形成していく可能性があるので〝何とか問題を解決したいなあ〟と思った時に〝自分は捉われた考えを持っている部分はないだろうか〟ということを自分に問いかけないといけない言葉であるということです。(三重)

例えば、家庭の中であったら、夫婦の事だったら、「お父さんはこういう人だから」だとか、うちの女房は「こういう女房だから」とか、それから「お母さんはこういう人だから」とかね、これが「捉われ」です。捉われているとおかしなものを自分が形成していってしまうので、この「捉われ」ということは、ただ単に医学のことだけでなくて、自分の生活に当て嵌めていく、自分自身に当て嵌めて、ここは考えていただきたいと思います。それで、『他を顧みない』実は相手の話を・・・私も家で家内によく言われるのが、「人の話を聞いてない」と言われるんです。(笑い)「わかっているから言わんでもいい」と言うんだけれども、実は本人の言いたかったことは別だったというようなことがあるわけですよね。それは夫婦間ではあるでしょ。これだけ言っているのにさっぱり分かってない、とかいうことは・・・夫婦の間ではある。(笑い)それから、「私が一番辛いと思っていることをあなたは分ってない」とかね。「全然理解してくれない」とかいうことがよくある。これが、『他を顧みない』ということだから、これも自分の生活に絶えず、自分自身に投げかけておいていかないと、真善美完き理想世界を作るということには繋がっていかない、ということでありますので、医学を批判しているんだけれども、実は自分自身も省みて、そこに『夜の時代』の癖が、癖ということについては『夜の時代』の癖があるわけなんですけれど、それを取るということが実はメシヤ様の信仰をやっていくということなんだ、と。メシヤ様の信仰というのは、そういうものが信仰なんだ、と考えていただきたいと思います。(岡山)

『他を顧みない』ということは、人から指摘や助言を受けた時に「素直に耳を貸す」という取組をしていかないと問題解決ができない部分があるので、この『捉われる』ということと『他を顧みない』ということは、ここではご批判に使っておられるのですけども、自分に対する問いかけとして受け止めておいていただきたいのです。(三重)

 

浄霊は「自己と家族」、他人ではなく「支部」へ

それからですね、『医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。』ということがありますね。ここでは、二点しっかり見つめておいていただきたいことがあります。浄霊というのも、他人任せにしてはいけないということですね。自分の家族が浄化した場合は、できるだけ家族が浄霊をしていくものであって、他人に頼むものではないんですね。自分が浄霊していくんだと。だから家族が浄霊する場合ですね、相手が具合悪ければ、こうやって柱に寄りかかってでも一晩中浄霊できます。でも他人であれば、なかなか泊り込んで浄霊するということは、いろいろな問題がありますので出来ません。しかし、家族であれば、一晩中でも二晩で三晩でも、ずっとこういう柱なんかに寄りかかって浄霊すれば、一晩中でも浄霊できます。そして、良くなるまで浄霊できる、ということですね。これが浄霊の有難いところです。御論文の医者の方では、家族の病気については、自分が診ると予断が入るから、知り合いの医者に診せるというようなことを、メシヤ様は御指摘されているんですけれども、しかし、その点浄霊はなんと素晴らしいことかということが一点あるんです。 (支部責任者―医学は複雑すぎて明確な判断ができないが、浄霊はだいたいの急所さえわかれば手をかざすだけで、明らかな結果の相違があるので大変有難い)

それからもう一点はですね、具合の悪い方がいて、そこに浄霊に行きますけれども、家族が浄霊力をいただいていても・・、昔の話ですと、家族が「おひかり」をかけているけれども、浄霊はほとんどしないという家族がありますね。また、入会をしない未信者家族もありますし、入会しても初心者もいます。こういう場合には浄霊に行ってあげて大いに結構だけれども、しかし、一たびメシヤ様の御教えを読み始めた場合は、段々と、来てもらって浄霊をいただくということは人に迷惑をかけ始めるので、これはまた御守護いただきにくい状況ができあがってきます。

だからできるだけ家族に浄霊をしてもらうということと、それから具合の悪い人は支部に浄霊をいただきに来る。

しかし、支部の責任者から浄霊をあまりいただき過ぎると、支部の責任者が布教できなくなるので、これまた御守護いただきにくいということをメシヤ様は御指摘されていますので、責任者に、こういうところを浄霊しなさいということを指示いただいて、誰かそこに奉仕の方がいらしたら、まずその方から浄霊をいただいておいて、そして、その後に責任者から浄霊をいただくというふうに、責任者の仕事が充分できるような体制を常にとっておくということです。そういうような形をしておかないと御守護いただくようにはならないということをメシヤ様はおっしゃっていますので、自分に当てはめて考えていただきたい、そういう御教え拝読の仕方をしていただきたい、と思います。(大阪)

 

自然宗教の根っこは「人々を守る」ということ

それからその下の方に医者の悩みとかが出てきて、

『医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり』とあります。江戸時代までの医者のやっているということは時代劇の中で出てくるよりも古い医者達、蘭学が入ってくるまでの日本の医療はなにをやったのでしょう。ほぼ話を聞いていただけなのです。話を聞いてそれから慰めていたのです。それから薬草が少しわかっていましたので、「お腹の痛い時にはこういう草を採ってきて煎じて飲みなさい。」とかね。自分で作ったりしていました。

若い頃は怪我した時に、我々の方ではね、蓬(よもぎ)ですね。蓬(よもぎ)の葉を二~三枚採って揉(も)むと汁が出てくるから、それを使います。ですから薬草みたいに取り扱っていましたね。これが江戸時代までそのようにしていたのです。まあ、昔からの言い伝えなわけで、ズーッと人間の知恵でね、こんな時はこの草が良いということを教わって食べてじーっとしていればだんだん良くなってくるということを経験によって得て来たのです。その人がなぜお腹が痛くなっているかということを良く聞いて食べたものとかね。それから「この機会に言うけどももっと嫁さんを大事にしろよ。」とか。それからお嫁さんには「亭主にあんな言葉を使っちゃだめだよ。」とか言って修正してあげるんですね。医者が。

これは先月も此処(ここ)で自然宗教と創唱宗教の成り立ちをお話しましたが、その自然宗教の一番根っこには「人々を守る」ということからできてきているので。だから守るためには夫婦生活をきちんとする。家庭のあり方を医者が言ってあげていたのです。

もうひとつはお坊さんもそういう話をしていました。ですから家庭が円満にいくようにお坊さんと同じような役割を医者が担っていたのです。こういうようなことから少し日本人の歴史というものを垣間見ていただければと思います。(三重)

 

真理のわかった人は偉い人

それから最後にですね、

『私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。』と書かれています。ですからメシヤ様も医者であれ何であれ真理のわかった人は偉い人だと評価をされておられたということです。このことがわかっていませんとやはり医者の言うこととか薬理学をやっておられる方のお話から良いものを見つけ出すということが出来なくなってしまいます。

それで十二月号の文芸春秋に椎貝達夫(しいがいたつお)医師が「患者よ あなたに透析は必要か」という論文で「保存療法」のことを紹介しております。保存療法に取り組んでいけばおよそ今の透析を受けている患者の三分の一(13000人/37000 新たに透析を導入する人)に減らせるということを訴えているのです。

それはなぜかというと透析をすると年間どのくらい病院にお金が入るでしょうか。年間約520万円/人だそうです。それで透析患者が日本に約297000人います。透析患者の自己負担額はだいたい1万円・月、12か月12万円です。すると残りのおよそ5百万円は国、保険料なのです。保険料といっても税金ですからね。年間1兆円を超えるのです。しかし、受けないと生活できない人達がいるので医学上は透析は人の命を救っているということにはなる。ですから、その点は私も否定は致しません。しかし、本当に透析を受けなければいけない人は腎臓が何%働かなくなった人だと思いますか。命に関わってくるのは腎臓の濾過機能が5~7%にまで低下した時だそうです。ところが今透析を受け始める患者さんは何%くらい動かなくなった時だと思いますか。大体ね腎臓機能が60%働いている人でも透析を勧められているのです。40%だめになった人が透析を勧められるのです。医療的には5~7%から60%までこれだけの幅があるのです。ほとんどの医者は60%まで落ち込んだら透析を勧めるそうです。そして、一度透析を行うとやめられなくなるのです。さらに腎臓の機能が落ちていきますからね。

病院は絶対につぶれませね。しかし、一番大変なのは患者さんなのです。まだ腎臓が働いているのに透析をかけられる。6割が動いているのに透析をかけられるとこの6割がほとんど機能しなくなってしまうのです。ガガガガガーと弱まっていってしまいます。しかし保存療法をすると残りの5~7%までは我慢していけるのです。この差というのは何年間も透析を受けるのを先送りできるということです。今こういう現場ですよ。ということを医師が訴えてくれているわけです。

新年号で保存療法の具体的なやり方を紹介してくれるので合わせて読まれたら良いかと思います。そうするとね、浄霊をしながらどのような生活をしたらよいか。どんな食生活をしていったらよいか、というヒントを得ることができると思います。腎臓の浄化の対応策(浄霊と生活指導)ができるのではないかと思います。

このような捉(とら)え方をしていくことがメシヤ様が『私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。』とおっしゃられた御心に近づいていけるということではないでしょうか。

保存療法の話をしましたが浄霊をやっていくと保存どころか回復していくから有り難いのです。透析療法が普及しはじめたのは、ちょうど私が腎臓を悪くして医者が「家で死なせなさい」と言われた数年後です。ですから、私がもっと遅く生まれていたら透析されて浄霊には繋がらなかったかもしれません。透析療法が普及する数年前に私が生まれてきていましたので腎臓病を患って腎臓が一切働かなくなって尿毒症が起きてしまいました。それで「家で死なせろ」といわれて家に連れて帰られたころ、母親の叔母から「浄霊をいただいてみないか」と言われて浄霊をいただいたらおしっこが出るようになったのです。

ですから浄霊をいただくと腎臓が保存どころではなくて回復してくるのです。

それで私はそれから52年間生き続けています。(三重)

 

救命救急のドラマから認識すること

最近の医者たちが書いている本の中で、また良い本が出ています。それは『人は死なない』(矢作直樹・パジリコ刊)という本をかいた医者があります。これは麻酔科の医師が書いた本です。いわゆる臨死体験やそれに類することから感ずることをずっとまとめた医者です。そうすると、救急医療センターとかの現場のドラマとかがありますね。ドクターヘリのドラマがあったり、救急医療に携わっている現場の医者たちのいろいろなことを描いているドラマがあったりしますね。そのドラマを見ているときに、心臓がとまって心臓マッサージをして、でもなかなか心臓が回復しないときに、医者はなんて言っていますか?患者に向かって。「この人はなんていう人だったかな?」と医者が尋ね、看護師さんが「○○さんです」と答えると、「○○さん、・・・・・・」とそのあとなんて言いますか?

心臓が止ってしまっている人ですよ。台詞、何か思い出しませんか?

「戻って来い。」ですね。どこから戻ってこいですか?霊界からですね。

だから救急医療に携わっている医者ほど、霊界がわかっているのです。一番、死の現場に携わっているから、お坊さんよりも霊界のことがわかっているのが、救急医療の医者たちだということです。「戻って来い!」か「帰って来い!」です。どこから戻ってくるのかと医者に聞くと、「あっちの世界」とかいう言い方を多分しますが、それが霊界だということです。

メシヤ様の教えは、この救急医療に携わっている医者の「帰って来い」とか「戻って来い」とかいう言葉からすると、霊界があるということをその人たちは認識しているということになります。しかしこの人たちが認識している霊界というのは初歩的な霊界の認識です。その初歩的な霊界の認識をメシヤ様は教えに基づいて、細かく霊的知識を我々に説いてくださっているのが、『霊界の構成』とか『霊界での審判』とかそういういう項目になる御教えになるのです。(浜松)