手書きで失礼いたします。

令和2年8月
覚りの旅 令和2年8月度 勉強会を終えて

三救責任者挨拶
皆様、月次祭、おめでとうございます。
コロナの浄化の広がりの中、御光を求めて参拝された皆様が、大きな御力を賜ることをお祈り申し上げました。
覚りの旅に入る前に、少々時間を頂いてお話をさせて頂きたい事があります。
昨日、「たらちねの」というタイトルで、ブログにアップさせて頂いた内容です。
平成30年2月にある方に先生の霊が憑ってメッセージを伝えてこられた事がありました。メッセージを、いくつか言葉を挙げられて、その意味を僕に‘調べなさい’という指示があったんですよ。その内容をブログにアップしてありますので、見ていただきたいんですけども、今回、問題というのは、その時に調べられなかった言葉がありました。それが、「たらちねの」というメッセージ。その時にあったんですけども、文学とか短歌とかで言うと「たらちねの」というと・・・「たらちねの」って枕詞なんですね。何にかかる枕詞かというと?

参加者

三救責任者
母ですね。母にかかる枕詞なんですよ。その時の状況が、母にかかる枕詞だから、先生のお母さんに対してだろうと、だから個人的な事であって、調べても出て来ないので関係ないのかな・・ということで省いたんです、この時。ところがですね、昨日見てましたら、そのもののビックリする内容が出てきましたので、紹介したいと思います。

昨日、「明主様に御救い願う霊界よりの通信」を読んでいました。鳥肌が立ちました。
すべてはメシヤ様の子で必要があって使命を持って生まれてきた。
宇宙の者すべてがメシヤ様の子である。
日本に天降って世界救おうと思うが、余り汚い所は手が出せない。
主神様が行けるようにするには祓い浄めなければならない。
そのお役が毛沢東にある。
そして、『たらちねは母だけじゃない父と母と意味している。』と御教え下さっておられ、それをヒントに調べ直しました。
『たらちねの』は『尉と姥』。『尉と姥』って高砂、お婆さんが箒を持って掃いて、お爺さんが熊手でかく、要は掃除、そういう意味と、『尉と姥』というのは『伊弉諾尊、伊弉冉尊』様の事を言っておるという事が御教えにあるんですよ。そういうことで・・明主様の頃に霊界通信というのがあって、霊媒の方に明主様と毛沢東が憑って会話をしてるというのが御教えで出てくるんですけども、2月17日、毛沢東・赤龍ということで、読んでいきますと、

明主様に御救い願う霊界よりの通信
    『地上天国』58号、昭和29(1954)年3月25日発行

二月十七日
       毛沢東(中共)赤龍

    明主 入口に来ている霊、しげるに憑れ。憑ったか。そちは何者じゃ。

    毛 お待ちかねの毛沢東でございます。私も赤龍奴にございます。

    明主 そちよく働くの。わしが誰かわかるか。

    毛 ハイ存じております。

    明主 どうだ景気は、中々景気がよいではないか。蒋介石を追払ってのう。中々景気よくやっとるのう。楽しいか。

    毛 今考え中です。

    明主 大親分のスターリンは氷の中で業しておるぞ。スターリンもボチボチ悔い改めて来た。そちも根底の国が好きか。

    毛 嫌いです。初めはスターリンに協力しておりましたが、先程モロトフさんから聞いて考え中です。

    明主 そちは明主の何になるか。わかるか。教えてやろうか。

    毛 さあ、ヒントをお与え下さい。

    明主 よし与えてやる。たらちねの、それだけじゃ。

    毛 たらちねは親でございますか。

    明主 たらちねは母だけじゃない父と母と意味している。わかったか。

    毛 ハイ。

    明主 中々日本語が解けたのう。即ち地球、否宇宙に住む物は明主の生みの子じゃ。そちは知らなんだか。必要あってこの世に出したのじゃ。そちも御用があって生んだのじゃ。どんな御用かそちわかるか。

    毛 昨日聞きましたあの御用でしょうか。

    明主 支那はよく汚れていると思わぬか。家でも汚れているとどうするか。

    毛 お掃除します。

    明主 掃除しなくては支那は、明るみにさらされると余りの汚さに地中の藻屑となる。そちどうすればよいか。明主はのう日の本日本に天降って世界救おうと思ってのう。余り汚い所は手が出せない。どうしたらよいかのう。

    毛 ハイ掃除させて頂きます。

    明主 そうじゃ。綺麗にしなくては支那に春が訪れぬ。支那の民救うために綺麗に掃除してくれるか。掃除してくれると、真心ある民が救われる。真心ある民は御光によって救われる。そちはその大役つとまるか。

    毛 つとまります。

    明主 麗らかな春の日が訪れるぞ。

    毛 汚い地におさらばです。

    明主 どうかのう、綺麗にしてくれ、主神が行ける様にしてくれ。

    毛 ではその様に段取り運ばせて頂きます。

    明主 そち一人では出来まい。沢山の人を使ってやってくれ。そちの義侠心を見込んでやってくれ、人が悪くいってもよい。善悪は主神が決める。やってくれ。必らず春を与えてやる。各国とそちの手下と手を組んでやってくれ。心変りしたら、明主車輪にて焼き尽くすぞ。誓って帰れ。

    毛 御霊眼よくわからせて頂いておりますから、必ずやらせて頂きます。これにて帰らせて頂きます。

三救責任者
すごくないですか?ビックリしたんですよ。
「たらちねの」って調べていて出て来なくて、この御教えの中に(霊界通信の中に)同じように霊界の霊憑りの話で「たらちねの」って一言だけの言葉で、そういう意味だったんですね。掃除をすると。
で、毛沢東はどこの人?

参加者
中国

三救責任者
中国だよね。今の大浄化の発端と言われていますね。
僕の思いね、これは。これ、お掃除、浄化ですから、大掃除の役目で毛沢東が何らか色んな人を使って、毛沢東も亡くなってるけども、色んな人を使って働いたんじゃないかと思うんですけど。

尉と姥
那岐那美の二尊は尉と姥とならせ大天地を浄めますかも
尉と姥とで世界の大掃除を致す
伊弉諾尊と言う神様は国常立之尊になるんですね。

という御教えがございます。
で、もう一つ、余談かも知れませんけども、この話で御歌とかを調べてた時に、三重で調べていて、まだ僕がメシヤ教に居た時ですね、30年の2月ですから、メシヤ教の本部でそういう霊憑りがあって、2月10日、連絡してきたので、そこに居た○○さんと僕と○○とで調べたんですよ。
今、この話を何でするかというと、○○さんは、『文明の創造』もそうですけども、御教えの英訳の御用をされてます。『文明の創造』の英訳と、この前学ばせて頂きました、『医学革命の書』の英訳と、それから『アメリカを救う』の英訳は、Johrei のホームページで見ることが出来ます。
今、伊弉諾尊は国常立之尊でもあると出てきましたので、そういう話をさせて頂きました。

それで、今日は『病気とは何ぞや』ということで、一通り読んでもらってあるものとしてですね、僕は要約しながら話をしていきたいと思います。

『病気とは何ぞや』御執筆の目的

8-1
8-1

8-2
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『病気とは何ぞや』ということで、御執筆の目的というのは二つあります。
一つは、神様は医学、薬に尊い人間の生命を握らせておけないということと、もう見過ごしては置けないという事です。
この医学革命についてまとめている時に医者の愚行、病院の実態を垣間見る機会がございました。
詳しくはここでは省略をいたしますけども、今や世の中は九分九厘医学という邪神の計画に握られているのです。知識のない人、この道を知らないほとんどの人は医学の前になすすべを知りません。
しかし、私達にはそのすべがあります。メシヤ様のことを、浄霊のことを周りの人に話をしていくことです。その話をすることが出来るように・・・
目的の二つ目として、来るべき地上天国に住することが出来る真の健康人をつくるために、いよいよ病気について細かく分析して下さったのが『文明の創造 科学篇』であるわけです。
これは6行目から12行目に書いてあります。

8-3
8-3


痛点
それからですね、19行目のところに「痛点」という事が出てきますね。痛点を和らげる取り組みと書かれています。「痛点」というのはですね、皮膚面に分布する痛みを感ずる点、皮膚の全面に沢山あります。


図ー1痛点


絵を描いてみたんですけども、痛点に当たると痛いけど、鍼なんかは痛くないですよね、痛点に当たってないですよね。ツボに当たってるかもしれないけど。こういう間隔があって、脊髄を通って脳に伝達される、痛みといういのは。だから、痛いというのはこういう電気信号を感じ取って痛いと感じるので・・。それで、人間って錯覚ってあるのでね。痛みを和らげたいという事で薬を飲むと、さっきの延髄から脳へ信号が送られてくるのをブロックしてしまうんですね。ブロックしてしまうので痛くないと錯覚してしまうんです。そうすることで、薬が延髄付近に加わって固まっていきます。で、今の人というのは薬を入れては頭を使いますね。パソコンとか見たり、頭を使います。すると、薬毒が後頭部に固まります。後頭部に固まってる人が多いですよと。だから、89行目から98行目くらいのところなんですけども、徹底的に延髄付近を浄霊するんですよと。で、この固まった薬というのが、後々認知症の原因になったりしますよと。
今、認知症に話がいったので、認知症100行目のところにいくと「認知症予防には刺激が必要なんです」ということが書かれています。
メシヤ講座で出て来ましたね。ラジオを聞いたりとか、人との会話というのが大事ですよと。喧嘩してでもいいので会話することが大事ですよと。
で、生理学の本にアルツハイマー病というところにですね、多くは、短期記憶障害に始まって徐々に進行し、時間、場所、人の認識が出来なくり、痴呆状態へ進行していくという事です。


8-4
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長期記憶は大脳皮質に記憶

図ー2


これが、大脳ね。大脳皮質。最終的には長期記憶になるとこの周りにたまる。記憶されるんですって。で、長期記憶になるのに情報があって、普通何か作業したりするワーキングメモリというのは数秒ですぐに忘れてしまう。海馬に保存されると短期記憶になる。これは数秒から数時間。新しい情報により古い情報は忘れてしまうらしいです。最初はね。これを長期記憶にするには反復練習により、だから100回読めば嫌でも大脳皮質に保存されるんですね。こういうのが分かっておくとね、また浄霊する時に急所、急所と言わなくても、こういう生理学とかを見て意識して長期保存されるように。同じ事を何回も言う人というのは、その記憶だけ保存されてるのかもしれないね。

で、認知症というのは自分が分からなくなる。自己浄霊も出来ないので、気付いた人に浄霊をしてもらって声をかけてもらわないと治っていかない。人格が無くなるということほど恐ろしいことは無いんだと。そして、その原因というのは海馬の萎縮です。延髄の一番上のところにあって、認識、思考、記憶を貯蔵する接点です。これは29行目から34行目に書いてあります。

8-5
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それで、延髄に薬が加わっていくという事が、65行目のところに書いてあります、後頭部、延髄の固まりほど厄介なものはないということです。今の人は薬を入れては頭を使うから、どうしても薬毒が後頭部に固まってしまう。精神病に限らず、どこか具合の悪い人をみるとほとんど10人が9人までこれです。必ず延髄の右か左のどちらかが腫れて固くなっています。そうして、微熱が出て気持ちが悪い。微熱の為、食欲が減るとか気が塞ぐとか、神経衰弱的の症状があります。それから、これが溶けて、咳が出て痰がでると、ちょうど肺病みたいになります。
肺病みたいな症状でも急所は後頭部だったりするわけです。
ですから、これを浄霊するとほとんど治っていくんです。ところが、これがなかなか頑固ですから、簡単にはいかないのです。余程根気がいります。他の病気は少ないのも少ないし、治り方も非常に簡単にいきますが、それが一番いけないのです。これは浄霊法講座の172ページに書いてあることです。
後頭部、延髄の固まりという事で、調べて書きました。

「化学物質、添加物が細胞分裂の不調和をひきおこす」

それで、今回、『病気とは何ぞや』がテーマですので、その大きな原因は薬だという事がありました。
他にも重要なことがありまして、107行目のところにですね、「化学物質、添加物が細胞分裂の不調和をひきおこす」ということです。


8-6
8-6


食品でいえば添加物、農薬とか化学肥料。住宅で言えばクロスの接着剤。車で言えば新車の場合シートとかガラスの接着剤。生活用品でいけば化粧品とかシャンプーとか洗剤。空気汚染とかでいうと、PM2.5とか粉塵とか排気ガス、公害、黄砂。黄砂というのは中国のモンゴルの方だとですね、遊牧民がずっと移動してたので問題なかったんですけども、定住化政策を中国がとるようになってきたのでそういったことで、その砂に乗って飛んでくる。私達の周りには化学物質が蔓延しているのです。薬以外の化学物質が身体に取り込んでしまって体調不良になって、それを治そうとまた化学物質である薬を使用してしまう。そして、化学物質が体の中に残留すると細胞自体が奇形化する。突然変異要素を持った形で定着すると、癌化していきます。“我々を取り囲んでいる恐ろしい病気の原因はここにある”わけです。122行目にあります。
だから、実際に薬を飲んだ記憶が無くてもですね、そういう今言ったような食品なり住宅なり車なり黄砂であってもPM2.5であっても、車の粉塵、一杯その要素はあるわけです。
病気の原因として、薬、化学物質、添加物などを取り上げてきたわけです。

『病気とは体内にあってはならない汚物の排泄作用である』


8-7
8-7


『病気とは体内にあってはならない汚物の排泄作用である』と132行目のところに書いてありますけども、この汚物というのは先程より話に上がっている薬を中心とした化学物質。そして、その薬が古くなったものが、汚物であり、薬毒となってきます。薬は古くなると毒血または膿化、不潔物となってきます。これが薬毒のイメージとして捉えやすいので、148行目のところになりますけども、人から「あなたのところでは病気の原因は何だと言っているの?」と聞かれたり、話題に上がったりしたら、「薬毒が古くなったもので、毒血または膿化した不潔物だと仰っています」と答えて下さい。そして、「その不潔物、汚物を体の外へ出そうとする作用が病気なんだと教えられています」ということです。そして、その化学物質など自分で作りだしたものではない・・自分で作りだすのは脳が出すゆなドーパミンとかね。薬物は自分で分解して体外に出すことが出来なくて依存が残ってしまいます。化学物質とかは依存が残りますよという、これが問題なんだという。こういう風にしっかり学んで来たわけです。現代人は応用能力が無いので他の薬やサプリメントなど出てくるといいのかなと思ってしまいます。御教えに照らして思考する応用能力を育てていかねばならないと思います。

メシヤ様信者使命

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8-8

182行のところに行くと、この薬毒にはまっている現状を、メシヤ様の御教えによって、或いは浄霊の力によって救済するというのが我々メシヤ様信者の役割とか使命だと受け止めていきたいと思います。
187行目のところ、そして、薬によって苦痛が緩和されるので、これが病を治す手段なんだと思ってしまったのは、実に二千有余年前からであるわけです。
で、ここで調べていくと、

ヒポクラテスに還れ!

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医学の元祖って・・ヒポクラテスって知ってる? ギリシャの人。
ヒポクラテスが言ったのは病は自然が治す。医師はそれを助ける役割だと。御教え通りの事ですね。医学、医者の最初の人というのは、こういう事を言ってるんです。自然で治していくんだと。それを補助する役目が医者であると。という事を言ったにもかかわらず、今は、病を敵視して正反対のことをやってると。だから、ヒポクラテスに還れ!という事です。
今回、ギリシャの話がよく出てくるんです。

医学は自然の教えに反し、自然から離れて独り歩き

8-10
8-10

次のソクラテスもギリシャの哲学者です。「無知の知」とか「人生いかに生きるべきか」というような命題を持って哲学を説いた人。このソクラテスの弟子にプラトン。プラトンの弟子にアリストテレス。その弟子にエラシストラトス。このエラシストラトスが生理学の元祖みたいな。この流れで生理学が生れてきたよと。で、プラトンのもう一つの分かれたヘロヒロス。これが解剖学。だから、ソクラテスの流れから解剖学・生理学。これ自体が今の医学。この流れにあるわけですね。ここにくると、もうアレキサンドリア医学と言って人体を客体化。物としてしか見ないようになってくる。
もう、全然違う。「人生いかに生きるべきか」だったのに、ここはもう、物としての扱いが。これが今の医学の流れになってくる。ここの流れをもっと遡れば自然を重視するというところに行くわけですけども・・ということです。自然の教えに反して自然から離れて独り歩きをはじめてしまったと。このプラトンのこの流れね。

これね、何が書いてあったかというと、『食と生命』という本で、これは○○さんの元のところの関係の本。二〇年以上前にそこから取り寄せたんです。で、今ちょうど、話が出来る。

それとですね、今、ギリシャの話をしてますね。ソクラテスから離れたギリシャ自然哲学によって人間が自然界から切り離されたように、ヒポクラテスから離れた医学は人間から病気を切り離し、病気の異常現象だけが独り歩きを始めた。いつしか“病は悪なり”という疾病感へと地滑り的転換が始まったと。ギリシャが医学の発生であるけども、当初は自然治癒力、病は自然が治すというのが根本の思想であったことが分りました。で、ギリシャつながりでいくとですね、『文明の創造』に出てくるんですけども、ギリシャの娘たちが痘瘡患者の膿の中に針を入れその膿汁を皮膚にさすと軽い痘瘡になり、重い痘瘡より免れることを見て、それが牛痘で免疫が出来ることを発見したのが英国の医学者エドワードジェンナー氏で救世主の如く世界人類から仰がれている。つまり、ワクチンの始まりもギリシャであったわけです。

「大戦争と浄化作用」

それで、『明日の医術』という御教えに「大戦争と浄化作用」というのがありますので、読みます。

私は前篇において病気も天文現象も浄化作用であると言ったが、戦争なるものも勿論浄化作用であると。昔からの歴史の推移に対し、心を潜めて観る時ソロモンの栄華もギリシャ文明も古都ソドムの崩壊もポンペイの埋没等も、勿論その内面的に堆積せる罪穢れが極度に達したからである。そして、世界大戦を世界的大浄化作用だと。浄化作用によって毒素留結が排除し、健全なる姿に還る事であって人体の病気に対するそれと同様の意味であると。

御教えでは世界大戦ね。ギリシャの崩壊も、皆、浄化作用です。そこの地域の罪穢れがたまってたから浄化するためにという事だと。今の話、先程の伊弉諾尊の尉と姥の大掃除の話につながってくるわけですけども。

恐るべき誤謬


8-11
8-11

『活力があるから浄化をいただける』

それで、222行目に 恐るべき誤謬 としてですね、浄化作用があって毒素を排泄させようとするわけですけども、それを停めてしまうんです。これが、本当に恐るべき誤謬なんですよと。
毒素を排除するために浄化作用が起こると。それを停めようとするのが恐るべき誤謬だという事です。活力があるから浄化を頂けるわけで、活力を弱らせる方法が医療であると。浄化を頂くということは人体が弱ったわけではないんですよと。
だから、○○さん、活力があるから浄化を頂いているわけです。

参加者
はい。

三救責任者
浄化を頂くということは人体が弱ったわけではないんですよ、ということが書かれています。

参加者
はい。


8-12
8-12

三救責任者
241行目に行くと。私のヘルニアの浄化のことを例にメシヤ講座で勉強させてもらってます。御教えの編纂、校正作業をすることで魂に光がガンガン入ってきたから、霊が浄まって霊主体従の法則によって体が浄化したと解釈していけば良いと御指導いただきました。この時はトイレに行くのに這って行くほど全く立てませんでした。しかし、仕事を休める範囲内で浄化を終了することが出来ました。つまり御用をさせて頂いて、仕事を休める範囲でという絶妙な時間で回復し、新たな御用を頂き、光がガンガン入ってくる。で、次の浄化が皆さんが御存じの通り大変なものでした。今まで休暇の取れる範囲内で回復していたので大丈夫だと休暇を取得しきってしまって、一旦職場復帰したんですけども。お医者さんに診断書を書いてもらうのに、薬を使わない医者を探してそこで書いてもらったわけです。結局は、仕事が出来る状態ではなく、休職せざるをえませんでした。そして、自分にとって御用と仕事を両立できる時期を過ぎて、御神業に専念すべき時期になってきたことをなんとなく感じたわけです。
私の話をしてますけども、皆さん、自分に置き換えて色んな受け止め方が出来ると思います。それで、56歳7か月で退職しようと決意、御神業に専念するという第2の人生への準備段階に入った矢先に楳木先生が御帰幽というメシヤ教大浄化となったわけです。
使命というのは、神界なり霊界なりからメッセージを送っているのでしょうけども、人間がどう受け止めてどう決意できるか、そうした時にそのメッセージが成立つ。神様との共同作業が始まるのだと思います。『活力があるから浄化をいただける』ということを、私の浄化を例にとって話をさせて頂きました。

「御浄化のいただきかた」

8-13
8-13

それから、377行目の「御浄化のいただきかた」
ここが、まとめ的な内容ですので、読んでいただければと思います。
ここではですね、病気の概念、浄化作用のことが明確に分かった人が幸福者であるんだと。私達は御教えを学んで浄霊のお取次ぎを許されているわけですから、幸福者です。御浄化を頂いて、毒素を取って頂いているんだと、くもりを取って頂いているんだと、それでまた次の御用をさせて頂けると受け止めることが出来る人が本当の幸福者だと思います。

ピッタリだね。
この医学革命の『病気とは何ぞや』のところは、ここまでにしまして。

テーマ2『私の名称に就いて』
2018年10月 覚りの旅 資料
2018年09月19日

2018年10月の時はこの内容(天恩地惠8月11ページ)でお話したんですけども、最初のところだけ。
この私の名称に就いての最初の太字のところというのが、「メシヤ様」とか「主神様」の言葉で検索したところが太字で書いてありますね。そこというのは、僕がこれを載せたくてまとめたわけですので、で、そこが大事だと思うんですよ。そこをちょっと読みますけども、90ページなんですけど、

『以前私は大先生と呼ばれたことがあったが、其の時は観世音菩薩という菩薩行であったからそれでよかったが、如来となってから明主の名にしたのである、又自観とは自分は観音の働きをしているという意味であり、その他和歌の名の明麿も斯ういう訳で付けたのである。
そうして神様は私の霊的地位や、仕事の関係などから、相応した名前を御付けになるので、今後と雖も名前が変るかもしれないし、変らないかもしれないと思うが、考えてみると明主の言霊は、メシヤと五十歩、百歩だから、或いはメシヤの名前になるかも知れないとも想っている。』


図ー4

これを、書き表わすと、観世音菩薩の時は菩薩行で、観音様だから菩薩まで神様は位を下げられてるので、メシヤ様の呼び名も大先生だったよと。事実ですから、この時、観音教団だったし。で、光明如来となったので、明主。光明如来の働きの時に明主様なんですよ。この時に最後の支部とか、教会にかかっている御神体というのは光明如来、あるいは大光明如来でした。光明如来様にみろく大御神と唱えていました。これが、応身弥勒じゃないでしょうか?光明如来と書いてある。ね、そういう受け止め方も出来るんじゃないかと。光明如来様の働きの時に明主様っていう話ですから。ここが大事かなと。御神業、変わっていくじゃないですか。で、霊的地位とか仕事の関係に・・・メシヤ様が伊弉諾尊の働きをしているとか、今は何々の働きをしているとか、国常立之尊になったから厳しいんだとか、そういうような話をされていますので、その働きによってお名前が変わるわけですよ。そうした名前をつける。だから、私達は今、御神体を主神様、主之大御神様と呼べる御神体としてですね、メシヤ様と御尊称申し上げています。全然、先生のお話の仕方とピッタリ合っていると思いませんかということです。合っていますよね。


8-14
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それでは、442行 テーマ2『私の名称に就いて』に入らせて頂きます。
2018年、2年前の10月の「覚りの旅」の復習になります。
はじめに「50歩100歩」の私の見解を述べております。
このころある大きな教団を離脱した方とお話しする機会がありまして「メシヤ様と呼べなければここへきて学べないのか」という質問があったのです。私は「そんなことはないですよ。私達も初めは明主様とお呼びする教団から来て、学びを続けるうちにメシヤ様と御尊称申し上げるようになったのです。」と答えたことがあります。

その方が引用されたのが「『明主の言霊はメシヤと五十歩百歩』とお言葉があるではないか。だから明主様で良いではないか。」と解釈されておられました。

そこで大多数の明主様と呼んでおられる方々にどのようにお話しさせて頂けば良いのだろう。まずは五十歩百歩の意味を調べようと思ったのです。

解釈を読みます。
451行~475行

【五十歩百歩の解説】【注釈】
中国の戦国時代に、梁の恵王が「自分は、凶作の地にいる民を豊作の地に移住させるなど、常に人民に気を配っているのに、なぜ各地から人民が集まらないのだろうかと孟子に尋ねたところ、孟子は「戦場で五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を臆病者だと嘲笑したら、どう思うかというたとえ話をした。
「逃げ出したことには変わりないのだから同じだ」と答えた恵王に、孟子は「その道理がわかっておられるなら、人民の数が他国より多くなることなど望まないことだ(人民が苦しむのを凶作のせいにしていては、他国の政治と大差はない)」と言ったという故事に基づく。同様の立場にありながら、相手を嘲笑する愚かさをいう。
「五十歩を以て(もって)百歩を笑う」とも。
【出典】 『孟子』
【注意】 「五十歩」の本来の読み方は「ごじっぽ」だが、今は「ごじゅっぽ」と読まれることも多い。差が大きすぎるもの同士に使うのは誤り。
誤用例 「偏差値が30の大学と65の大学を受験するのとでは、五十歩百歩ほどの差がある」
すぐれたもの同士に使うのは誤り。
誤用例 「ノーベル平和賞も、国民栄誉賞も、五十歩百歩の大きな賞である」

司会 この辞典の解説によれば、『明主の言霊は、メシヤと五十歩、百歩』というのはすぐれたもの同士だから誤りではないかと思えます。
それではどうしてこのように仰ったのでしょう。
「明主様とメシヤ様は同じなのだから明主様とお呼びすればよいじゃないか」と誤って受け止めてしまう人に対しての警告ではなかったかと思うのです。
あくまでも時期が来たら『メシヤ様』と呼びなさいと仰っておられると受け止めるべきだと思います。メシヤ講座でも確認させて頂きます。

続いて 479行~536行を読みます。

メシヤ講座・特選集no.134(平成24年3月分)
主神様に向かう姿勢を整える
御在世中から近年まで、主神様を認識することのできる思想体系、学究のレベル、文化情操が整っていないために、信仰の対象も代理神を以って拝む形態で信仰が営まれてきましたが、『宗教も進歩発展しなくてはならない』という御言葉に鑑み、整えてゆく時代を迎えていることは間違いないところです。私が御神体を御啓示によって謹製させていただいた時に、何時も指摘される場合に引用される御教えに下記の内容があります。
(前略)然らば真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在(あらせ)らるるかというと、それは主の神の表現神で被在(あらせ)らるる天照皇大神様であられるのである。天照皇大神様は、最尊最貴の御神格に渉(わた)らせらるる故に、人民まことが自己の希望を念願し奉る如きは、寔(まこと)に恐多いのである。恐多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願い言は叶わないのと同じ意味であるのである。
此故を以て、主神は、伊都能売神を介して観世音菩薩に、救の力を与え給うたのである。茲(ここ)に、一切衆生を救わせ給うとしては、神の御名に於ては、其(その)格位に対する神律上、或(ある)程度より下らせ給う事は、不可能であるから、止むを得ず、神界より下位である仏界に、顕現され給うのである。而(しか)も菩薩位は仏界に於ても、低位であるから、如何なる卑しき、賤(しず)が伏屋(ふせや)でも、奉斎する以上、鎮まり給いて、御守護被遊(あそばさ)るるのである。随而(したがって)、正しき事は、凡(すべ)て受入れ賜うのである。(『鰯の頭も信心とは大いなる誤りである』より)(後略)
この御教えは、昭和10年10月21日となっていますので、時代背景を考慮することは勿論、神様の御出世の段階を拝察せねばなりません。そして、『みくらたなの神様』という御存在が光の球(メシヤ様の腹中の御存在)へ魂として御宿りになられたことで事態は一変したことを認識せねばなりません。その時点で代理神という御存在を介さず直接拝する時を既に迎えているのです。そのことを、弟子達が浄霊の奇蹟を裏付けとして整えてゆかねばならなかったのです。
ましてや、信仰形態がメシヤ様御自身に関わることですので、御自らなされることではないことは自明の理でもあります。弟子達に委ねられることは当然です。そうしなければ『メシヤと呼ばれることになるかもしれない』という御言葉を発せられる訳がないのです。
また、こうした構築がなければ、このように物質文明が発展したにも関わらず、精神文明の発展が遅れたままに過ぎるばかりとなります。その認識が浅かったことは残念でなりませんが、今後根幹となる御教えの編纂を進めつつ、本来の御神業推進を一層進めてゆくことを企図しております。

司会 このメシヤ講座から、常日頃よりメシヤ様の御神格を認識させていただき、メシヤ様と御尊称申し上げる取り組みがあってこそ、主神様の御神体に間向かう姿勢を整えることができるのだとわからせて頂けるのではないでしょうか。
もっとわかりやすくお話ししてくださっておられるメシヤ講座がありましたので、確認させて頂きましょう。



メシヤ講座・三重 平成21年11月度 メシヤ講座特選集No.105
<メシヤ様対談記・14>明主様(メシヤ様)をお訪ねして語る。
文芸春秋誌顧問 日置昌一氏、同編集局次長 近藤利弥氏 
(栄百八十六号 昭和27年12月10日)を拝読して
(質問者)メシヤ様は「メシヤという名前が非常に好きなのです」と答えられていますね。
(先生)「メシヤという名前が非常に好きなのです」と言っておられるということは「メシヤと呼んでほしい」ということですよ。それをなぜ皆「メシヤ様」とおよび申し上げないのか。と言いたいですね。
(質問者)そうですよね。「メシヤ様」と呼んでほしいということですよね。
(先生)このような対談の内容はぜひ知らない人に教えてあげてください。私達がよりお力を頂くにはメシヤ様の望まれることをさせて頂くこと。「メシヤという名前が 非常に好きなのです」と言っておられるのですから「メシヤ様」とお呼び申し上げることなのです。根本のことですね。

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メシヤ様と御尊称申し上げるには、メシヤ様の御神格の認識が求められます。御腹中の光の玉へ魂として『ミクラタナの神様』が御宿りになられたから、
主神様=メシヤ様 を代理神(みろくおおみかみ)という御存在を介さず直接拝する時を既に迎えているという事です。

先生はこのようにきっちり論立てをなさっておられました。
メシヤ様・御神体の認識があってこそ〇チョンの御神体に真向かい『主之大御神様』と奉唱が許されてきたという御指導であったと思うのです。

484行に〇チョンの御神体を御啓示によって謹製とあります。
主神様に真向かえる御神体を求められ、即ち『主之大御神様』と御奉唱が許される御神体を求められ、結果、人間界へのお働きがあり、(御啓示によって)謹製が許されたのだと思います。

繰り返しますが、『主之大御神様』の御神名の奉唱がかなう御神体を求められたのです。
決して他の御神名を奉唱させて頂くための御神体とは思われていませんでした。

ですから501行に『ミクラタナの神様』を〇チョンのチョンとして魂として認識されますので、〇チョンの御神体は『主之大御神様』との御奉唱以外考えられないわけです。

本日は『私の名称に就いて』の学びから非常に奥深い内容となりました。
メシヤ様の御教えを 先生の御心を拝察しつつ、今後とも学んでまいりたいと思いますので、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。