『覚りの旅』令和二年四月号

三救責任者挨拶

皆様、月次祭おめでとうございます。

今は、三月九日です。四月度の月次祭での挨拶文を書いているわけですが、世の中の状勢が日々変化しておりますので、実際の挨拶では全く内容が異なることがあるかもしれないことを御理解いただきたいと思います。

今、テレビで異様な光景を目にしています。観客が全くいない中、大相撲の中継がされています。コロナウイルスの感染拡大防止対策という事ですが、まわしを叩く音が館内に反響しています。力士の四股(しこ)を調べますと

力士が土俵の上で片足を高くあげ,強く地を踏む所作。相撲稽古(けいこ)の重要な一方法だが,他方で地を踏み鎮めるという宗教的意味をもつ。日本各地の祭礼で行う民俗相撲では,力士の四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮め,あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を約束させると伝えるものが多い

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア より

伊勢神宮では毎年奉納相撲がありますように、宗教的要素が相撲にはあるのですから、厳粛な雰囲気の大相撲というのもまた本来の姿なのかもしれません。

四股ということでは、メシヤ講座で何度か話題に上がっておりますので、紹介させて頂きます。

メシヤ講座・三重 75号(平成26年1月度)

○「腰割り」「テッポウ」トレーニング

(質問者)

○○さんですが、心地が悪いので、婦人科に行ったら「子宮が下がるとか膣が下がる」「手術しても再発する恐れがあります」と言われたそうです。泌尿器科へ行きましたら「三重県では手術出来るところはないので大きい病院を紹介する。しかし、検査をして病名を確定する必要がある。」と言われたそうです。

(先生)

子宮が下がるということは子宮に筋があるでしょう。筋腫になる筋です。

(質問者)

以前子宮筋腫の手術を受けたそうです。

(先生)

筋(すじ)で引っ張っているわけです。その筋が緩んでくるので、下がってくるのです。そうするとそれに子宮や膣とかもくっついているので、全体的に下がってくるからどうしても違和感があるのです。

それで三重県で手術が出来ないというのであれば〝手術をしない方が良い″というように受け止めて、『浄霊』に徹すると良いと思います。そして運動が大事です。引っ張っている筋を鍛えれば良いのです。

肛門を引き締める運動とかが良いと思います。ギューッと引き締めると筋が復活してくるでしょう。

それからお相撲さんが良くやる四股(しこ)とテッポウを応用した筋トレがあるのです。

*「腰割り」「テッポウ」トレーニング というようです。

「腰割り」をすると足の付け根のリンパ腺とかが解(ほぐ)れるので、まず血行が良くなってきます。それからリンパ液が流れやすくなりますので、肩幅より少し足を広げて無理にならない程度にズーッと腰を下げていくと解れてくるのです。フワーと下がる程度に何回かやると良いです。それで次に四股を踏むのです。そうすると体のバランスが取れてくるのです。筋が緩んでいるということはバランスが崩れているのです。

それから次は「テッポウ」・・・足も一緒に動かしながら「テッポウ」をやると良いです。

実際に柱にやると家が壊れるので「空(から)テッポウ」です。これをやると肩が解(ほぐ)れてくるのです。

これを熱くなるぐらいやると体中血行が良くなっていきます。血液の流れとリンパ液の流れが物凄く良くなっていきます。中年になりかけているご婦人方でも大いにやるべきだと思います。

ですから、『浄霊』と運動をすれば必ず治っていきます。もともと若い時には筋で吊り上げていたものですからね。それが手術したりした時に使った薬等が影響して緩んできているのです。もう一回引っ張り上げれば良いわけなのです。それを手術するというのは緩んだ筋を切って繋ぐのです。すると短くなるので上に上がりますが筋自体弱っているので、また下がってしまうのです。だから緩んだのを力を付けて引っ張り上げるようにするのが、手術より効果的なのです。「一度浄霊と運動をやってみないかい」と話をしてみてください。

 

メシヤ講座・三重 平成263月度

○メシヤ様が晩年心がけられた、歩いてほぐすということ

(質問者)

背面の方がというのは寝ることによって後ろに毒素が溜まりやすいということでしょうか。

(先生)

そこに毒素が溜まりやすいということです。

前からしてもその固結に到達するように浄霊したらどうですか、との質問がありましたが、固結がどのくらいの厚みがあるかわかりません。前からする場合は固結の前側に当たることになるので、直接固結の後ろ側からした方が良いのではないかと思います。

(質問者)

固まり切っていると溶かしにくいですね。

(先生)

固まり切っている場合は、今実行していただいている、四股とテッポウとかを続けてほぐすということを心がけていただきたいと思います。

それと年齢的なことを自覚してメシヤ様が御晩年に心がけられた〝歩いてほぐす″ということを我々は浄霊だけでなくてね、そろそろ行った方が良いです

大きな浄化を乗り越えていく方法というのは御教えやメシヤ講座で早くから示されているのです。私の場合もそうでしたが、浄霊・運動・食ということに取り組めばよいのだという基本路線が確立されているのです。

しかしながら、人様のお世話をさせていただく時に心掛けておかねばならないことがあります。『ご随意に』ということです。

 

ご随意に

メシヤ講座番外編より

先生

重病患者が薬を止めて浄霊のみで治して生きたいというのであれば、家族の了解もしっかり得た上で臨機応変に対応して行くのが望ましいでしょう。

しかし何度も念を押しますが、医者にかかるにしても浄霊一本で治すにしてもあくまでも本人の意思と言うのが徹底されていないといけません。

誘導するような形になってはいけないので、ここは特に気をつけてください。

メシヤ様のやり方はどんな場合でも臨機応変だったのです。

本来の在り方は提示するが、選択は『本人のご随意に』というご姿勢がありました。

指導者の言われたとおりにやるというのはどちらに転んでも問題を発生させます。

以前お話ししたくも膜下出血の方への対応ですが、「何があっても一切責任は問わないで」という確約を取りました。冷たい言い方をしたかもしれませんが、その方は本当に神様を求める気持ちが強かったのです。だから私も一生懸命に取り組みました。だからその方は奇蹟を頂き、難病を克服したのです。

 

【御教え】『御垂示録』21  昭和28615

『「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ」というように言うのです。』

 

伝道の手引き より

家族が浄霊に反対する場合

 『ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起こらないのです。病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、「それは結構だ、全くそのとおりだ」と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ」というように言うのです。それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持ちがあったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化です。

  ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱というか、それです。』

 

メシヤ講座・特選集(№62・平成183月分)

メシヤ様は絶対的な真理をお説きになられながらも、『それを採用するかしないかは相手のご随意である』という姿勢を貫かれ、無理強いをされませんでした。これは絶対的な自信に裏付けられたお姿であり、そこにこそ、メシヤ教における信仰生活の規範を拝することができます。

 

メシヤ講座・特選集no.145(平成252月分)

 メシヤ様が「水晶殿」御遷座の際にお話になりました、『御神業の本筋』ということであります。メシヤ様は我々に真理を説いてくださいました。説いてその内容を自分の生活に中に取り入れて、『やるかやらないかはご随意に・・・』という御姿勢をメシヤ様は明確にしておられますので、我々がそれを自分の中にしっかり受け止めて生活をして行くか、あるいはして行かないかは、我々の全くの自由な訳です。自由であるからこそ、支部の中で、信者さん方の中で、それを採用してやろうがやるまいがこれも自由な訳です。

支部を預かる責任者としてはイライラすることもあります。「この前言ったのにわからんなあ・・・」というようなことが日々起きてきます。これこそは、メシヤ様が『御随意に』と仰っておられた結果としてある訳ですので、救われる道を歩んでいくか、救われる道から遠ざかっていくか、ということは一人一人の自由なんだということであります。

これから、厳しい浄化が予想されますので、お世話させて頂く時に、理解して取り組んでいただきたいことを始めにお話しさせて頂きました。それでは、今月の『覚りの旅』に入らせて頂きます。御教え拝読をお願いいたします。

 

令和二年四月度『覚りの旅』御教え

「真の大乗宗教」 栄光二四二号 昭和二十九年一月六日

要約いたしますと、

・宗教には大乗と小乗とあり、世界的宗教は、分派という、色分けがされているが、本来宗教は、人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであるべきで、手段方法にしても色分け等ないのが本当だろう。

・別れ別れだと、社会混乱の原因となり、宗教という善の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事が出来なくなります。

・宗教よりも邪悪の方の力が勝つ事が常にあるが、神は十全、邪神は九分九厘であるから最後は神が勝つのです。しかし。善の方の苦しみは並大抵ではありません。

・邪神の勢力は、絶えず吾々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来ます。

・ですから、宗教は邪神以上の力を有たねば、善の勝つ幸福な世にはなり得ません。

・そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲ここに不安なき幸福な世界が実現する。

・それは、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。

・その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。

・即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と智慧とを有する巨人が出なければならない事である。         

この巨人とはメシヤ様ですね。

真の大乗宗教というのは、地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割を発揮する超人的力と智慧とを有する巨人こそ、メシヤ様なのです。そうすると、真の大乗宗教とは、メシヤ様の御教えを実践することだと言えるのではないでしょうか。

 

神は十全、邪神は九分九厘と書かれています。3月にも、『九分九厘と一厘』の学びをさせて頂きました。もう少し掘り下げてみたいと思います。

『九分九厘と一厘』 栄光138号、昭和2719

『神の力は十全であり、邪神の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝(まさ)っており、この一厘の力をもって掌を反すので、この力こそ如意宝珠であるから、私が常にいうごとく、現代文化は九分九厘までで切替えとなり、その時がキリストの言われた世の終りであるという訳である。従って、この時こそ霊界においては仰天動地の一大異変が起こるのは必然で、この事を信じ得る人にして、永遠なる幸福者となるのである。』

御講話(S27816日)

『ですから丸の、ポチが今までなかったのです。ポチが隠れていた。ですからこの輪(○)――つまり言わば、からっぽです。ですから今までは、からっぽ文明です。そこでポチですが、ポチは一厘なのです。これ(○)が九分九厘なのです。九分九厘と一厘というのはそういうわけです。で、一厘の仕事をするのが私の使命なのです。』

御講話(S27826日)

『九分九厘と一厘ということの一番重要な根本は、医学の革命なのです。これでミロクの世ができるのです。ではなにゆえにそういった医学にしろ薬にしろ、そういった間違ったものがあるかということと、それに対して神様との関係はどうだ、という疑問が起りますが、それを今『文明の創造』の中に書いてあるのを読ませますが、それですっかり分かるわけです。おもしろいのは、今までの宗教は残らず悪を非常に非難したり、排撃している。そうして善一方で説いているのです。これは宗教に限らず、 道徳でもなんでもそうなってます。ところが今度私が説くのは、悪も肯定し悪は必要だったということと、薬は神様が人間を瞞して服ませたのだということを書 いてあるのです。これが大乗の説き方なのです。それはどういうわけかと言いますと、今までは主の神様の教えは説かなかったのです。主の神様が善と悪と両方こしらえて闘わせて、文化というものが今日のように発達したのです。今までの宗教の開祖なんかは全部善の方の神様なのです。それからいろんな悪の方の、悪 魔はこっちの方なのです。これが始終闘っていた。闘っているので文化が発達してきた。これが闘わないで善ばかりだと、人類は原始時代と同じで少しも発達がなかった。そのために主神は両方作って闘わしたのです。それで今までの宗教は善の神様だから、こっち(悪の方)を悪く――徹頭徹尾非難したのです。ところが主の神様の教え――私の教えは両方説くのです。ところがこれ(悪)も必要だった。たいへんな良い働きをしたのです。しかしいつまでもこうしていると、ミ ロクの世――理想世界はできないのです。今度は――悪の方はぜんぜんなくなるのではないが、こう(善の方が悪よりちょっと上に)なるのです。こう(善の方がずっと上に)なるのはずっと先です。今まではこう(悪の方が上に)なっていたのが、善のちょっと下になる。これで良いのです。これで立派にミロクの世になるのです。善が勝てば良いのです。』

上記のように『九分九厘と一厘』ということを調べつつ、『天恩地惠 メシヤ講座』の編集も進めておりました。編集上、『メシヤ講座・番外編』も最終号に掲載するように作業を進めておりました。すると、メシヤ教の皆様にどうしても伝えたいのだと、私に語り掛けて来られたように次の御教導がヒットしたのです。それで早速ブログに掲載させて頂いたのです。

一厘の力  20200306日ブログ掲載

メシヤ講座no.14 番外編(平成221月その4)より

楳木先生への質疑応答13〜一厘の力 

楳木先生

そうすると、増々、「九分九厘と一厘」の、「一厘」というものをわかっておかなければなりません。例えば、「一厘の力」というと、「メシヤ様の力」ではないかとか、人によっては「大メシヤ」だとか、あるいは「大弥勒」だとか、このような表現を使ってイメージを膨らませる様な人も多い

しかし、これは御教えをそのまま読めばいい訳で、要するに、「主神様の」と書かれている。だから、先程の話と共通するのだけれども、「主神様」から出る力だから、浄霊力が最高であるという事。これを神科学ともおっしゃる。そういう力を出す事が出来るから、そこから頂く教えは、「真理」なのだという捉え方をして、この「真理」を以て行く事が、実は「一厘の力」なのだという捉え方をしないといけません。

「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだという姿勢を持っておかないと、いつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。この点を、取り違えない様にして頂きたいと思います。

10年前に、インタビュー形式で行われたメシヤ講座ですので、番外編となっております。

メシヤ教の混乱を予想されておられたのでしょうか。

「大メシヤ様」とか、「大弥勒様」とか、「国常立尊様」という世界ではない。

『主神様からメシヤ様を通して出られた御教え』なんだと、明確にご回答されておられるのです。御教えとメシヤ講座を規範として、ゆるぎない信仰生活をさせて頂ける私達は本当に幸せですね。

 

テーマが「真の大乗宗教」ですので、大乗と小乗についての御教えから学ばせて頂きます。

小乗的だと発展せぬ事  御講話(S28425日)

『昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないということについて、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならない、ということをいろいろ言ってましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎なところを忘れているというか、気がつかないのです。それはなにかというと、いつも言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。』

 

合衆国の国民思想を範に取る

『これはひとり宗教ばかりではなく、なんでもそうです。今一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。私はよく裁判があって行って思ったことは、アメリカの裁判は、仮に罪があるとすると、この人は罪人にした方が国家のためになるか、あるいは罪人にしない方が国家のためになるか、ということを標準にするのだそうです。それでいろいろな事業をする人などは、どこかに法に触れることが少しはあります。それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事はできませんから、少しは法規に触れる場合があるので引っ張られる、そうすると、この人間は法規上の罪にした方が国のためになるか、アメリカ発展のためになるかということを考えるのです。それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さなことは罪にしようがしまいがたいしたことはないので、裁判官の口先一つでよいくらいなものです。それで無罪にした方がアメリカのためになるということを標準にして決めるのです。だから私の裁判で鵜沢博士ともう一人の弁護士はその方針でやったのです。「岡田という人間は世の中のためになることをしている、非常に実行力のある人だから、こういう人は助けて、仕事をさせるようにした方が日本のためになる」ということをしきりに言ったが、裁判官にはそんなことはぜんぜん耳にはいらないので、ただ法律第何条に触れるというので罪人にするのです。だから日本は発展しないのが本当なのです。それは大きな、国家の害になるようなことでなく、小さな条文にでも触れると、それをたいへんなものにするのです。だから一つの欠点があると、九つの良いことがあっても、九つの良いことを見ないで一つの欠点で消してしまうのです。それが日本の欠点です。これは法律のことですが、』

 

神様もその人の働きを重んぜられる事

『信仰もそうで、屁のようなことで大きなことを忘れてしまうのです。だから発展しないとすると、そういうことが必ずあります。私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういうことをしてはいけない、神様の思し召しにかなわない、というようなことを言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持ちにならなければならないのです。またそうするのが神様の思し召しにかなうのです。神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮にその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳があることになります。』

 

人類愛を中心とすべき事

『もう一つは、それと同じことですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは、小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人たちを救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようということは捨てて、多くの人を救わなければ、とてもかわいそうで見ていられないということを、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人からなにを言われても、そんなことは気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。』

 

人の善悪を気にせぬ事

『だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとしたことですが、たいへんな違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういうことは言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないということを始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いということは分かるわけはないのです。』

 

発展策について総轄的な御教え 御垂示(S26115日)

 

発展せぬ根本的な理由

「お道に入り、結構なことだから、これを専門にやって行きたいと言って、専門にやらしていただいても、なかなか――二年になり三年になっても、食べて行けなくなるようなことがちょいちょいありますが、曇りが多いためでございましょうか」

『曇りが多いか、どこかに信仰がはずれているか、両方ですね。やっぱり、軌道に乗ってないんですね。軌道に乗れば良くいく。』

 

布教する資格の問題

「自分にはその資格がないのかと思うのでございます」

『そんなことはない。人間で、資格がないということは絶対にない。はずれているんです。うんと御神書を読むんですね。これはだね。病気が治りさえしていれば、すがってくる人が多くて困るくらいのものですよ。そうしてお蔭をいただけば、お礼をしなければならないしね。』

 

生活費に困るのは

「地方では、メシヤ教に治してもらったら――神様にはお金を使わず治してもらえるというようなことを言っておりますので――」

『最初はそうですよ。しかし本当にお蔭をいただけば、そうしてはおられないですよ。そいうのは、信仰が違っている。』

 

発展する人としない人

『なぜなら、人によって、非常に発展する人と、発展しない人がある。非常に発展するのは、良く合っているんですね。発展しないのは、こう思って改善していかなければならない。そういう場合には、時々その人が小乗信仰ですね。そういう場合が多いです。発展しないのはね。だから、やっぱり大乗信仰でなければならない。気の小さい人は発展しない。気の大きい人は発展する。そうでしょう。気の大きいということは霊が大きいので、魂が大きいと、教会もそれだけ、発展する。気が小さいと、いじけているので、教会も小さくなる。だから、メシヤ教はどんなに大きい考えを持っても良い。世界中を救うと言うが、空念仏ではないんです。実際に効果をあげているんです。』

 

信仰によって行詰りを打開させるについて

「その場合に、神様を信用申し上げるということは、お任かせするようになりますが、本人自身はそこまで到達しておらず、信用できないので、無理に自分から信じてしまうようにするというのは――」

『いけないですね。信じても信じなくても、勝手にしろというのが本当です。信じてもらわなくても良いんですからね。』

「わき起ったもので――」

『そうです。どうしても、信じたくてしょうがなければ、信ずる。それで良いんです。信じて下さいなんてね。先にありましたが、私のやり方は軽々しいとか、もう少し威厳をつけたほうが、ありがたがるだろうというのがあったが、私のやり方でお気に入らなければ、勝手にしたら良いでしょう。私はこれで良いと思ってやっているんだから、これが良いと思ったら信じなさいと言ったが、やっぱりそれが良いと思ってか、信ずる人がある。お信じなさいと言うと、霊的にその人が低くなる。と言って、むやみにうぬぼれてはいけないがね。実際に、五つは五つに、六つのものは六つにしていく。あんまり謙遜してもいけないし、あんまりいばってもいけない。その人相応にしていく。』

 

応変自任

「小乗的な行き方を反省いたしますと、親切すぎるくらいにヒント与えているということになりますが――」

『結構ですが、その場合に、堅っ苦しい戒律的はいけない。道徳的ですね。少しは良いが、あれにこだわりすぎてはいけない。だから、言うに言われないんですね。それから、相手によって違わなければならない。だれもかれも同じではいけない。相手によって、小さく言うこともあるし、中くらいに言うこともあるし、大きく言うこともある。それが応身の働きですね。信仰だって、相手に理解し得るようにね。インテリはインテリらしく、普通の人は普通に、女子供は分かりやすく単純な話ですね。人によって違わなければならない。その修行ですよ。だから、なんでも、一番いけないのは、決めるのがいけない。こうだと、決めちゃうと、真理からはずれちゃう。そうかと言って、ぜんぜん決めなくて、でたらめでもいけない。決めるべきものは決める。決めていけないものは決めない、事に応じて千変万化にする。それが自由無碍です。法律というのは、定めるから悪人が出る。これは罪になるということを定めちゃうから、それに触れないことは罪にならないということになって、法律をくぐることになる。お医者でも、これはこういう療法でやる。あれはこうと定めるからいけない。つまり真理は一つです。だから決めることができないし、決めないことはいけない。決めて、また決めない。それから、はっきり言ってもいけないし、はっきり言わなくてもいけない。つまり、わけが分からない。そこに、一つのコツを見出すので、それが最高の信仰です。だから、そこにいくと、ほとんど口には言えない。覚りですね。』

 

発展せぬ事は御神書をよく拝読すべき事 御光話(S24 228日)

――一 一人でも多くの人を救おうと悩むことはいかがでしょうか。

『教導所などが不振なのは、なにか神様のお気に入らぬ点があるんだから、それを見つけることです。『信仰雑話』をよく読めば判ります。あれは標準を教えてあるんだから。『信仰雑話』は何回でも読まなければいけません。よくあの中に出ているようなことが質問に出ますが、これはよく読んでない証拠です。』

 

小さき事にも心配るべき事 御垂示(S28111日)

 『小乗大乗、あるいは大きい心小さな心と言っても、本当に大きなことをする人間は実に小さなことに気がつかなければならないのです。大きなことばかり考えて小さなことに気がつかないのは失敗者になります。大きな考えを持っていても、非常に小さな考えも持っていなければならないのです。結局小さなことに気がつかなければ大きなこともできないのです。そこで大乗にあらず小乗にあらずで、一方に偏ってはいけないのです。』

 

自分を審神すべき事 御講話(S2711日)

 『今日はお説教じみたことが多いですけれど、邪神ですね――邪神が中々活躍しているんですよ。この間も言った通り、邪神というものは、信者を一番目掛けている。ところが信者は、自分は神様のご守護があるから――邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると――こういう風に思いがちなんです。そういう事はあるにはありますが、ところがそういう邪神は、ごく力の弱い邪神なんです。邪神の方のへっぽこですね。ところが邪神の方で、力――腕のある奴は、信者に憑るんです。これが怖いんです。それで――憑っても、決して悪い意味じゃない。信者ですから、間違った事や悪いことを考える事はしない。「これが良い。こうするのがお道に為になる」と思わせるという――これが怖いんです。そうすると、これが教団の為になると、その人が思ってやるが、それが知らず識らず、教団のお邪魔になったり、不利益になったりすることが良くある。ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじゃないかと、審神(さにわ)するんですね。そいつは大いに必要です。ですから、そういう場合に、よく――こうした方が良いか、ああした方が良いかと迷う時があるが、そういう時は大乗で見ていくんですね。教団全体から見てどうかと、ところがどうも ――人間というものは、自分たちの会なら会を盛大にしようというんですがね。それは大いに結構ですがね。そのくらいの自信を――優越心がなくてはいけないですが、その為に他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうという――この点がいけない。ですから、自分の会も良くし――他の会も良くなるというような意味から言えば結構ですが、そういう時に、ちょっと自分を審神するんですね。自己批判ですね。難しい事はない。じき解る。そういう時を狙って邪神が良くやりますからね。だから、その点を改心するんですね。』

 

小乗善では邪神にやられる具体例

 1 患者の家族に反対者のある場合 御講話(S2713日)

『邪神が一番目掛けているのは、信者なんです。それで、大きな問題ではないんですが、時々小さい問題が、教団の中にあるんです。ところが、信者さんの場合は、邪神にやられても、世間の人がやられるようなのとは違う。世間の人は、本当に悪い事をするが、そうではない。信者さんが邪神にやられると、良い事と思っている事が、結果が悪いんです。それを注意しなければならない。信者さんは、これが教団の為だと一生懸命やる。それが、実は反対の結果になるという事がよくある。この間九州で起こった問題は、一軒の家で、そこの娘さんか何かが病気で死んだんですが、それで、医者にかからなかったとかいう問題ですが、それは誰がそうしたかというと、そこの家の長男ですが、病人は二十幾つかの娘で、その兄貴ですね。地方の新聞に投書したらしい。今までそういう問題を見ますと、必ず青年が問題を起こすんです。起こすんでなく、問題にするんですね。たとえてみれば、その家の親が死ぬとか、兄弟が死ぬとかする場合に、普段から――浄霊している時から反対しているんです。そんなインチキ宗教で、病気を治すなんてけしからんと言う。今学校で教育を受けた者なら、そう考えるのもしようがないです。唯物教育によってそういう思想になっているから、たまたま家の誰かが信仰で病気を治そうとすると、反対ではないが、憤激的になるんですね。そんなような具合ですから、病気も治りにくいんです。その想念が邪魔していますからね。ですからいつも言う通り、一家のうちで非常に反対する人があったら、触れない方が良い――止めるんですね。その霊が邪魔するんです。だから結果が悪いんですね。すると、そうれ見た事か、俺が言った通りだ。じゃ問題にしてやろうという事になる。法律的な事はないんですがね。地方新聞なんかに、良く出るようですが、そこで一家のうちに非常に反対する人がある場合――そういうのは見合わせる。病人は頼りますから――中々それを振り切るというわけには出来ない。そこのところをうまくやるんですね。なるべく、そういうのは避けるという方針にした方が良いですね。問題の起こるのはみんなそうですね。それから、たまには妻君なり娘とか息子とかいう場合、本人が縋ってくるから、やってやるようなものの、親父が反対する場合に、死にでもすると、それを問題にしたがるんです。非常に面倒ですから、とにかく反対者のある場合――一軒の家でね。注意してなるべく避けるという方針を取った方が良いですね。問題を起こすというのが一番面白くないんですからね。幾ら一生懸命やっても、逆になりますからね。そういう場合に、大乗的に見れば良いですね。そういう病人に限って、面白くないです。病人は縋ってくるから、何とかして助けてやろうとするが、家の人が反対するので、何となく気持ちが悪い。それで、引っ込みがつかなくなって、パッと死んじゃう。私なんかも、昔あったんですがね。そういうのは避けるんです。薄情なようでも、パッと振り切るんです。それが、大局からいうと教団の為になる。それで、結果においてスラスラいって、有利ですね。ですから、いつも神様の事は算盤を取らなければならないというのは、そういう訳です。どうしても、大乗は小悪を伴うんです。大愛でいっても、少しの悪はどうもやむを得ない。ですから、多く助けようと思って、利他愛でやったところで、少しは――随分、情けないと思うような人もありますが、大局から見て有利の方をやっていくより仕方がない。それでないと、かえって神様の御神意に適わない事になる。だから、神様は人類全部を助けるとは言われない。助かる者と滅びる者と出来るというんです。それが、最後の審判ですよ。最後の救いではないんです。審判というのは、やはり ――罪人は罰せられるという訳です。ですから、そこの点が非常に難しいんです。そこで、どうしても大乗的にいかなければならない。小乗だと、あんなに縋って気の毒だとなる。それに、ひかされている。それは小乗になる。だから、今言う反対者に遭った場合は注意するという事だけ心得ておくんですね。』

 

 

大乗たれ

人を邪神と決めぬ事 御講話(S2881日)

 『最初に一言話したいことがあります。これは分かりきった話なのですが、どうも一番困るのは、いつも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは「あの人は邪神だ」とか「あそこの家には邪神がいる」とか言うことですが、これが一番悪いのです。ですから私は「人を邪神と言う人は、その人が邪神だ」と言ってありますが、邪神である邪神でないということは、決して人間に分かるものではありません。神様以外には分かるものではありません。それを分かると思うのは、神様の地位を犯していることになります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。』

 

邪神を恐れぬ事

 『それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。「あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない」とか「あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならない」というが、たいへんな間違いです。そうすると神様のほうが弱いことになります。邪神を恐れるということは神様を下にみることになります。本当言えば邪神のほうで恐れるのです。それを邪神を恐れるということは、神様のほうが邪神以下ということになります。この間のレントゲンの光が神様の光を通らないということは、神様の光のほうが上だからです。レントゲンというものは邪神のようなものですから、邪神のほうはかなわないのです。ただ今までの他の宗教は、ほとんど邪神に負けるのです。しかし救世教の神様は決して負けません。またそのくらいでなければ世界を救うことはできません。ですから邪神のいる所なら大手をふって、自分も行き、人も行かせればよいのです。私は前から「あの人はいけないから来ないようにしろ」とか「行かないようにしろ」ということを言われましたが、私は平気なのです。それはこっちより上のものはないので、みんな以下のものだからです。それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。そうすると救世教の神様に対してたいへんな御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足過ぎます。ですからそういうことは一向に無頓着でよいのです。それは邪神のほうがみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分かるものではありません。何となれば、邪神邪神と言われている人がたいへんなよい働きをしています。それよりも、邪神邪神と言う人が邪神なのです。何となれば、自分のほうが恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。邪神のほうは救世教の神様をたいへんに恐れているのです。ですから信者に憑って、やられないように邪神が擁護しているのです。救世教の神様がそこに行くと邪神のほうはひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑ってやらせるのです。ですから人間の考えはほとんど逆が多いです。』

 

悪も神様がつかって居られる事

 『それから人間の理屈では到底分かるものではありません。神様のほうは実に深いのです。たとえてみれば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるということは、とんでもない邪神です。ところがその邪神のために救世教というものが現れたのであるし発展しつつあるわけで、もし医者が片端から病人を治してしまえば、救世教は発展しません。救世教がドンドン発展していばれるということは、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものはたいへんなよい働きをしているわけです。しかしなにもわざわざこっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判することはできませんが、そういうようなものです。だからいつも言うとおり、今まで教団でも、邪神のためにずいぶん助かったり、ずいぶん良い功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。何となれば神様というのは、やっぱり悪いほうを利用するのです。それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。正邪の戦いということも、ぜんぜん善人ばかりだったら、戦いも何もないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるからか勝たなければならないのです。ただ今までは邪神のほうが強かったために、かえって神様のほうが一時的でも負けるのです。それで不幸や災いがあるのです。今度は神様のほうが邪神より勝ってゆけばよいのです。だからミロクの世になっても、ぜんぜん悪がなくなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様のほうに負けるのです。しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、どこまでもやります。またそれが邪神としての役目なのです。そこでそういうことを考える必要もないくらいなものです。ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいと言っても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けたほうがよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。だから今までは邪神に負けても、最後に神様のほうが勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、今までは邪神のほうが力があったから、負けている間が長かったのです。それがだんだんあべこべになってゆくのです。そしてあべこべになりきったときがミロクの世です。結論において邪神を恐れないことと、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決めることがたいへんな間違いであるということで、それはつまり神様の領分を犯すことになります。』

 

布教も大乗的な行き方

 『昔から信仰というと小乗信仰が多いので、ほとんど小乗信仰です。それで小乗信仰のために、つまらないことを心配したり、クヨクヨして地獄を作っているのです。小乗信仰というのは信仰地獄に陥るのです。天国というものは大乗です。苦しんだりいろいろすることは地獄に陥るのだから、つまり苦しまないことです。病人でもそうで、あの病人を助けなければならないと思うのは結構ですが、その心配のために地獄になります。この間も相談を受けたことがあります。精神病者ですが、どうしても助けたいと思っていろいろして、そのために気持ちが憂鬱になって、思案に余っていたわけです。それで私は「そんなことはわけない、すぐに病院に入れてしまったらよい」と言ったのです。それを病院に入れないで、どうしても治そうとするからです。そう言ったら、なんだか気がせいせいしましたと言ってました。というのはつまりこの間も言ったとおり、救われる人と救われない人とが時節が進むに従ってだんだん決まってゆくのです。だから救われない人はかえって諦めたほうがよいです。そのためにかえって救うべき人が救われないということにもなります。だからいろいろなことが思うようにゆかなかったり、良くなったり悪くなったりする、というのは救われない人だから諦めたほうがよいです。そういうのは医者にでも任して手を切るのです。そうしてスラスラとゆく人だけを助けるのがよいです。ところがまたそう決めてしまうとまた間違ってしまいます。そこのところは臨機応変にやることです。ある程度までは変化がありますが、原則をそこにおいておくのです。だからいつもいうとおり、楽しみながらやるようでなければ駄目だというのです。苦しみながらやるというのにロクなことはありません。ということは地獄だからです。できるだけ救うということは、一生懸命にやってある程度までゆけば、そこで決めてしまうというのがよいのです。どこまでも救おうとするから、そのためにかえって骨がおれるし、また救われない、霊界行きの人はしようがないのだから、そうすればこっちも楽です。これはちょっといけないなと思ったら、そこのところはうまくやって、ピタッと断わらないで、恨みの残らないようにやるのですが、それも一つの智慧証覚がなかなかいります。そういうように言うと、小乗信仰の人はピタッと決めてしまいますがそれはいけません。好感を失わないようによく話をして、「とても私にはお助けすることはできない」と言って逃げるとよいです。そういうのに限って親戚とか夫婦なら片方が反対して「医者にかかれ、かかれ」と言うに違いないのですから、「これはなにしろ家中の人がみんな賛成しなければ、その想念が邪魔するから、お宅のほうで全部賛成して『是非』と言うなら私はやってやるが、反対する間はその想念が邪魔するから、もう少し時節を待ちましょう」といったような具合でもよいでしょう。そういう理由はたくさんあります。またそういううまくゆかない人に限って反対があるものです。そうかといって家中揃って縋る場合もありますが、それでもうまくゆかないのがあります。そういうのを逃げるのは難しいです。そのときの事情によってうまく考えるのです。つまりそれが智慧です。そういうのは結局原因は薬毒で、薬毒の多い結果です。そのために衰弱してゆくのです。「なにしろ薬毒が非常に多いのだからそれをとるまでに体がもたない。だからその覚悟をしたほうがよい。けれどもただ苦しみをできるだけなくしてアノ世行きになるなら御浄霊は結構でしょう。だからそのつもりでお医者にみてもらって、苦痛を軽くするという意味でみてあげる」と言うなら、どっちに行っても間違いありません。先方も、間違っても恨むことはありません。そういうようにやれば、こっちも別に心配にはなりません。信仰地獄に落ちることはないから気楽なものです。それからまたそういうようにしてやれば決して問題は起こりません。問題の起こるのは必ず請け合って逆にゆくというときに、その家の誰か反対者が、それみたことかと、それを投書したり、ひどいのになると警察に密告するということがあります。ですから今言ったようにやるのが一番よいのです。これからだんだん浄化が強くなるに従って、治るのも悪くなるのもだんだん早くなりますから危ないのです。今までなら、これはまだ大丈夫というのが、今後はいけないほうならいけないほうに早く行ってしまいますから、それを心得て今言ったように要領よくやることです。』

 

神様について

    1 役に立つ者は必ずお助けになる事  御講話(S28627日)

 『今言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、神様の方では「お前は信仰にはいっているのだろう。オレの方でうまくやってやる。そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。そんなにオレを不人情に見られてはおもしろくない。お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」ということになります。従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。やっぱり邪神です。それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。ですから神様にお任せするということになると、神様の方でも大いに助けよいのです。その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまでは手を引かれて時を待たれるのです。神様というのは、今の睾丸ができたというように、たいへんな御力で、助けようと思えばなんでもないのです。ただ助かる条件が揃わないのです。ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。

  私は以前、まだ信仰の浅い時分に、神様の方ではオレを殺したらたいへんなマイナスだ、だから神様の方で助けるのがあたりまえだ、というように思ったことがあります。これはどっちかというと私の自信です。それで神様はそれに対して気持ちを悪くはなさらないのです。「ヨシ、お前にそのくらいの自信があれば助けてやろう」ということになります。オレを失ったら神様のたいへんな損だ、だから神様はオレを助けなければならないという、そのくらいの自信がなければ、本当はいけないのです。ですから神様に対する観念、見方というものを本当に知らないのです。ということは、昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものができてないからです。そこで神様の方も今までの神様はみんな枝の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。だから今までの神様というと、たいてい天狗とか狐とか龍神が多いです。ですから本当言うと、神社が百あると、本当の神様は十も難しいでしょう。あとはみんな邪神系です。邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞されているのです。そういう神様もたくさんあります。そこで本当にすがれるという神様はいくらもありません。それでむしろボロボロになった神社で、あんまりかまわれないような神社に、よく本当の神様がおります。』

     (中略)

  『それで一番神様の思し召しにかなうということは、多くの人を助け、人類を救うということです。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるということが一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になることです。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞をたくさん奏げるということは、決して悪いことではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かって多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。ですから私は前に大本教にはいったころに、家内が「自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい」と言うから、「オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね」と言ったのです。そうしたら「それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません」と言うのです。ですから地獄に行きたくない天国に行きたいということと、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいということは根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思うような人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいと思う人は、地獄に行くことはないでしょうが、天国の下の方か中有界ぐらいでしょう。』

 

     附 神様に惚ける勿れ 御垂示(S26111日)

    『神様にお任せすると言うことは良いんですが、神様に惚けると言うのはいけないんです。これは神様の思し召しだろうと思うと、そればかりじゃ失敗してしまう。そこにおいて叡智と言うのが必要になる。結局において、一つのことにとらわれてはいけない。また人間力にとらわれてはいけない。あらゆるものを総合調和させるというんです。それが、一つの伊都能売というのは、経にあらず緯にあらず、経であり緯でありというので、そこに言うに言われない一つのものができ上がるわけですね。それが一つの――仏教のほうで言うと、妙智と言うんですね。』

 

メシヤ様御降臨祭を御神業の起点に

それで、御神業をどのように捉えて行くかということで、ここから出発をさせていただく訳なのですが、その時にもう一度心に留めておいていただきたいことがございます。それは1223日の日に報告していただいた方々の中から確認しておきたいと思いますが、まず、1223日にもお話ししましたが、その中で個人として、大阪支部の方から報告していただいた方がこのように纏(まと)めております。

「代表先生の御指導でメシヤ様の看板として自分たちの言葉が即メシヤ様の信用に関わってくるという気持ちを持って、というお言葉を深く受け止め、メシヤ様に少しでも近づかせていただける自分にならせていただけるように起きてきたことに素直に取組み今日一日何をしなければいけないのか、こんな時メシヤ様ならどのようにされるのかということを求めみ教え拝読と学びをすることにこれからも日々努力をしてまいりたいと思います。」という言葉でです。

このことを私達の、個人としての一層課題にさせていただいて、日々御神業に臨ませていただきたいと思います。

そうして、そういう一人ひとりを束ねてゆくお世話側としては、岡山支部専従者が2年間の学びの集大成として拝読した御教え『大乗宗教』の中の

『即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。』という『大乗宗教』の御論文の中身を私達は宗教の中に身を置く人間として大きな捉え方ができるように、今年一層想念を広げて行っていただきたいと思います。

その上で『宗教に自由はあるのか』の御教えの

『一種の宗教地獄に落ちるのである』の部分を肝に銘じておきたいと思います。とりわけ本日は御神業の中心を担ってくださっておられる方々にお集まりいただいておりますので、『真の自由とは他人の自由を尊重する事であるから、そこに自らなる限度がある、所謂一定枠内の自由で、此自由こそ真の自由である、何となれば他人に些かでも障害を与えるとすれば気が咎める、不愉快であるから、そこに天空海濶的の気持にはなり得ない、どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、之が真の自由である事を知るべきである。』という内容、このことを取り分けお世話をさせていただく方々は、肝に銘じて進んで行っていただきたい、と思います。

私もメシヤ教として小さいところから立ち上げ時、様々な方々から問題解決のあり方等を相談されてきました。中には皆さん方ご承知のように借金の癖が中々取れない人がおりました。ある時その父親から「竹刀で百叩きをして借金癖をとってくれないか」と言われたことがあります。その時私は「それは『夜の時代』の呪術方法なので、私はそういうことはしません」とお答えしたことがあります。

三千年来の罪穢れがズーッと蓄積してきた上に、今の私達の生活に様々な事象が起きておりますので、これを一発で解決するということはない訳であります。三千年間積み重ねたことですので、しかも三千年前穏やかな秩序が保たれていた時代に、自分達は本来の人間性を兼ね備えておりましたけれども、三千年間『夜の時代』が続いたために、自分は正しいと思っていても、実は私達には『夜の時代』の癖がビッシリと染み付いています。これを取り除いていくのが実は『浄霊』であり『御教え拝読と実践』であり『参拝』『奉仕』である訳です

こうして立春祭に参拝させていただくのも行事があるから参拝するのですが、この参拝の根幹は“三千年来の自分の中に染み付いてしまった『夜の時代』の癖を取り除いてゆく”ということが一つの大きな願いとしてあります。私達が御教えに目覚めて真理を知る中で御神業に臨ませていただいていましても、一方では三千年間の罪穢れ、あるいはその癖が残っているということがあるからです。

それで昨日奏上した『神言』の一番最後に『此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比売と言ふ神持ち加加呑みてむ此く加加呑みてば気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神根国底国に気吹放ちてむ此く気吹放ちてば根国底国に坐す早佐須良比売と言ふ神持ち佐須良ひ失ひてむ此く佐須良ひ失ひてば現身の身にも心にも罪と言ふ罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を聞こし食せと畏み畏みも白す』と締められております。

この締められた事を受けて実は『善言讃詞』の中で『無量無邊の大慈悲に天魔羅刹も服ひて諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し 諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり』ということが進められていく訳であります。この節分祭をメシヤ様御自身は執り行わなくて良いということであるのですけれども、三千年前に正しい神様を押し込めた人間側はお詫びをし続けなければ神威というのは弥増してはいけない訳です。

ですから、祝詞というものの繋がりとメシヤ様が『善言讃詞』をこのようにお創りになられた背景というものをもっともっと今年は求めてゆきながら、三千年来の罪穢れを払拭しつつ『地上天国建設』を進めていくという取り組みを一層進めさせていただきたいと思います。

 

『夜の時代』の癖を取り除く術(すべ)を学ぶ

そして、この『夜の時代』の癖が出ないために12月23日は3人の方に個人でいただいた御守護の報告をしていただきました。個人でいただいた御守護が“何故いただけたのか”ということを、更に私達は求めていかなければ『夜の時代』の癖を取り除くことができないのであります。

一番わかりやすいのは多重人格で悩まれていた人が・・この人は母親が「多重人格の悩みを解決してもらいたい」ということで、いろんなところで祈祷してもらっても解決しない。それから現代医療にかけて解決しようと思っても解決しなかったのですけども、そのお母さんとおばあさんが中心になってメシヤ様に救いを求めて来られることによって、時には2階から飛び降りそうになったり、ハラハラすることがズーッと続いたのですが、メシヤ様と繋がることによって、本人以外の3人の人格がメシヤ様からいただく御光によって浄められて元津御蔵(もとつみくら)に還(かえ)っていかれた訳です。メシヤ様に浄められて元津御蔵(もとつみくら)に還(かえ)るということが、実は私達の御神業の一つの在り方であります。

この時に“この霊を浄めて還(かえ)らせるぞ”という想念で浄霊をすると相手の霊と対立してしまいますので、そういう浄霊では駄目な訳です。

メシヤ様の御光を、いかに“ここに救いを求めている霊に取り次いでいくか”という想念が大事なのです。夜の癖からすると、どうしても霊と戦うようになってしまいます。しかし、霊と戦っては『夜の時代』の宗教になってしまいますので、私達の想念を絶えず戻していかないといけないところがここにあります。メシヤ様の御光を取り次いでいくことによって三千年来の罪穢れを許されて、その人自身が悟りを得て“元津御蔵(もとつみくら)に還(かえ)っていく”という想念を私達の中には確立していかないといけない訳です。

それから、今の世の中の流れ方というのは、今日もご参拝されている〇〇さんのように少しプライベートな事に触れますけども、離婚して夫と別れたにも拘らず夫の姓を名乗り続けるということは・・・メシヤ様の教えからゆくと縁が切れたのでそちらの先祖とは縁が切れているということですので、姓をそのままにしておくというのはおかしなことになります。何年も経過していても実家の姓に戻していかなければ先祖供養というのは成り立ってゆかない、というところから取り組んで家庭天国に繋がっております。

メシヤ様の御教えを具体的なところに下ろしてきて、私達はお世話に当たるということをしていかなければいけません。

救う側の立場に立って、『伝道の手引き』から主に御教えを掲載させて頂きましたので、大乗のあり方、メシヤ様のお示し下さった救いの方法を皆様で話し合っていただくのも良いかと思います。

 

それでは次のテーマに入らせて頂きます。

テーマ2

「明主様(メシヤ様)御言葉」昭和二十九年六月五日

メシヤ降誕

明主様御言葉

未発表、昭和29(1954)65日、碧雲荘にて

管長 お祝申上げます。今日の御生誕の儀、御目出度う御座居ます。信徒一同、日々の御守護厚く御礼申上げます。メシヤ様(明主様)

 

 メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。

 

御挨拶  理事 阿部晴三 栄光263号、昭和29630日発行

 今日は誠に御目出たい日でございました。謹んで、皆様と共に御祝いを申し上げます。

 ただ今管長様から「明主様」を「メシヤ様」と、今月より申し上ぐる事のお話を拝聴させて戴きましたのですが、それにつきまして私から、世界はじまって以来なかった事を皆様に御伝えする喜びを持つ次第であります。

 それはメシヤ様の御手の筋でございまして、いわゆる天下筋と申すのでございますか、左の御手の五本の御指にありやかに現われていらっしゃるのでございます。これは何と申し上げましたら宜しいか、「ごてんもん」とでも申し上げますか、あるいは「ごこう」とでも申し上ぐべきでしょうか。この事に関しては、五十年間も易学を専門にやっている方に御聞きしましたのですが、その方の申されますには、このおしるしは、神様が御現われになったという意味で、非常に珍しいことであります事、この度の御病気はそのおしるしが現われます為のものであった事、今後大変御長命に亘らせられます事、又御事業も更に更に新しく、沢山おやりになることになります事――という返事でございました。

 とにかく、手に筋が現われますという事は、何千万人に一人という程の珍しい事であるそうでございまして、それが、まして五本の指に現われているのでございますから、なお一層珍しい事と申し上げなければならないと思うのであります。この点についてもその方に、どういう名称かと訊ねたのですが、それに対しては、名称を審(つまびら)かにしないということで、分らなかったのでございます。

 ところで、どういう訳で神様がこのおしるしを御与えになったのでしょうかという事でございますが、それは、昔から“メシヤは手に証を持って生まる”という言い伝えがあるのでございます。そう致しますと、メシヤ様の御手の筋は正にその証左であると申し上げて宜しいものと信ずるのであります。この御手筋は神様の御許しがなければ拝見できない事になっておりますが、いずれ資格者の方々には御許しを戴いて拝見できる時機があるものと思われます。これをもちまして私の御挨拶を終ります。

 

天降説

未発表、昭和23(1948)

 キリストの再臨と云い、メシヤの降臨と云うが、これは肉体そのままをもって天から降るのではない。それは特殊の神霊が天から降下し、選ばれた人間の肉体に宿るのである。弥勒下生と云うも弥勒の御魂が下生、つまり下層社会に生れると云う訳である。また胎蔵弥勒と云う言葉があるが、これは仏教の内に胎中の期間を言うので、実はすでに誕生されたのである。従って、弥勒が生れた以上仏界は最早消滅期に入ったのである。弥勒出現成就経に仏滅後弥勒が生れると云う事が書いてある。

 今から三十数年前、私は当時ある有名な牧師に遇った時、聞かされた話であるが、実に奇想天外な説であった。それは聖書の世の終りと言うのは、世界人類ことごとくが死滅する、しかしこれは仮死であって、千年経った時、キリストが肉体を持って天から降り、全人類を復活せしめると云うのである。私は余りの途方もない説に到底信ずる事は出来なかったが、これは聖書の文字通り直訳したためである。

 

私という者(一)

『地上天国』47号、昭和28425日発行

要約いたしますと、

・現在私が最も主力を注いでいるのは病気治しである。

・医学は、西洋も東洋も、治病の手段としては薬を主としている。

・漢方医学の方はほとんど見るべき進歩はなく、西洋医学の方は科学文化の影響を受けて驚くべき進歩を遂げ、世界の医学は西洋医学独占となり、この医学を進歩させさえすれば、病気は解決されるものとの信念で、各国共奨励している。

・しかし、修得するには、歳月と、費額もかかり、容易ではない。

・医療は、一時苦痛は緩和し、治るように見えるが、日を経れば再発する。

・手術によれば患部の機能を除去するから、再発はしないが、形を変えて他の病気が発生するのもまた事実である

・この理屈が本当に分ったなら、医学は当然革命されなければならない

・医学は一時的苦痛緩和を治る過程と錯覚し、その方法を進歩発達させて来た

・このまま進むとしたら結局人類健康に対する危機が来る

・ところがこの現状に対し突如として私の説が出た

・いよいよ医学は滅亡という大異変が目前に迫り来た

・これ程人類の心を根強く把握して来た医学の迷言を晴らす事は容易な業ではない。

・邪を正に立直す事

・主神の経綸である以上、困難はいささかもない。

・そうして私という者を選ばれたのは、天地創造の時すでに約束された事であって、このため大救世事業に必要な智慧と力を与えられたのである。

・私はいささかも医学を学ばずして、徹底的に知り得た。

・この事だけにみても私という人間は、未(いま)だ嘗(かつ)て地球上に現われた事のない不思議な人間である。

・私の説を信じて治病の術を学ぼうとする場合、数日間の教修を受けるだけでいい。

・すなわち私の腹の中には光の玉がある。この玉こそ到底説明は出来ない幽玄微妙なるもので、いわば主神が自由自在に行使する神器であって、昔からいわれている如意宝珠、麻邇(まに)の玉がこれである。もちろんこの玉の威力こそ人類肇(はじま)って以来始めて私という人間に与えその使用を許されたもので、この玉の光が霊線を通じて御守に伝達し、無限に光を供給するのであるから、御守の数がどれ程増えても何ら変りはないのである。

・以上によっても分るごとく、私が行う業は宗教ではない。宗教以上のものであって、名称を付ける事は出来ないのである。

・宗教というものはある期間中の役目であって、仮の救いであり、永遠性はない。

・釈尊のいわれた仏滅といい、仮の娑婆(しゃば)も、キリストの世の終りが来るという言葉もこの事であった。

・今日までの宗教では本当に病気は治らないのは事実が示している。

・現在宗教のほとんどが医学に頭を下げ、病院を造っているにみても明らかである。

・宗教の力が科学以下である事を証明している訳で、最早既成宗教の生命は終った。

・この事を一日も早く自覚すべきである。

この意味が肚の底から分ったなら、弥勒下生(みろくげしょう)も、キリストの再臨も、救世主(メシヤ)の降臨も容易に分るはずである。

・もし分らないとしたら、それは事が余りに大き過ぎるためと、二千年以上もそのような事がなかったので、人類は有り得べからざる事と決めてしまっていたからである。

・開祖の教えは信じつつも、他面予言の方は信じられなかったという自家撞着(じかどうちゃく)に陥っていたのである。

 

この御論文でメシヤ様は何を仰りたいと思われますか?

「人類の心を根強く把握して来た医学の迷言を晴らす事は容易な業ではないが、主神様の経綸である以上、困難はいささかもない。主神様が、メシヤ様を選ばれたのは、天地創造の時すでに約束された事であって、このため大救世事業に必要な智慧と力を与えられたのだ。弥勒下生(みろくげしょう)も、キリストの再臨も、救世主(メシヤ)の降臨もすべて、メシヤ様のことである。」という事ではないでしょうか。

次にメシヤ講座を確認させて頂きましょう。

20154月 メシヤ講座・浜松

国常立尊様の力が強まっていくことへの対応の仕方

先生  それとですね、このメシヤ講座の今月の特選集では、『メシヤ降誕本祝典』記念大祭の私の挨拶でありますので、私の挨拶の、これから一番の課題は、『メシヤ様』というふうに唱えるようにみんなに広げていくという取り組みをするのですが、この『メシヤ降誕本祝典』を記念する大祭をずーっと重ねていくということは、『メシヤ』という御存在の認識が深まり、その働きの中には国常立尊様の御働きが強まっていくというふうに教えられておりますので、国常立尊様の力が強まっていくということは、立て分けが行われていくということになっていきます。

 

この立て分けとは一体どういうことかということと、立て分けに対して私達がメシヤ教として備えていく準備をこれから整えていかないといけないことがありますので、6月15日に出版する予定でした『天国の福音書』続篇(二)の信仰篇ということで、浄霊力拝受の時に買っていただく『浄霊』の本と『祈りの栞に寄せて』の本の合本を、今作ろうとしているのですが、最後に入信の入会の、いわば条件というのを決めていかないとこの本は完成させることができないので、どうしても最後のところを書くことができませんでした。

 

それでメシヤ様にどうしてもお尋ねしないといけないので、メシヤ様にお尋ねしたところ…。

 

要は他所の教団に所属していた人とかが、薬と浄霊をこう併用してずっとやって来て、そしてこれは間違っていると思ってメシヤ教に入会したいと言った時に、許可をしていいかどうかということがどうしてもメシヤ様にお伺いしておかないといけないので、「私でもいいよ。無差別でどんどん入れていくよ」ということでいいのかどうか、メシヤ様にお尋ねする機会があったのでお尋ねしたのですが、そうしたところ、メシヤ様は、『真に改心した者は入れてやりなさい』と。そういう御言葉でした。

(中略)

メシヤ様が、御浄化に入られて、メシヤ降誕仮祝典を執り行った時に、大きく二つの事が我々に課せられているものがあります。

その一つは、メシヤ様はおひかりという文字を御書きになることができなくなったので、おひかりについては印刷をして御下付するということを理事会で決めました。そのことを阿部執事が報告したところ、メシヤ様から、『うん、まあ、それでもいい』と。『しかし、本当はもう御守りはいらないのだ』と。メシヤ様に、名前と職業と年齢と住所、そうしたものを報告すれば浄霊力は授けると、いうことが一つありましたので、それで今のメシヤ教は、お金を一切いただくこともなく、希望する人にはみんなに浄霊力を授けていっております。これはこのままずっと引き続き、大勢の方々にお伝えしてその恩恵に浴していただきたいというふうに考えております。

もう一つ、メシヤ様が課題として出したのは、『これからは想念の世界なのだ』と。『御念じしなさい』というふうに仰っておりますので、(詳細については割愛します)

 

メシヤ講座・特選集no.45(平成1610月分)

「教祖の次に浄霊を取り次ぐことができた人は、『許す』というお言葉で御力を授かりました。その後、浄霊力伝授は「お守り」の下付によって「許し」の形をとってまいりました。そして現在「メシヤ様の存在を信じる」ことにより、浄霊力を伝授されるようになりました。大変有難いことで、感謝にたえません。」

 

 

 メシヤ講座・特選集(№100・平成215月分)

御神業の中で根底に置いていただきたいことが「メシヤ様の御教えに基づいて『教・論・律』を日々形成してゆく」信仰生活を歩みながら「宗教宗派、人種を超えて浄霊力伝授する」取り組みをより一層拡大してゆくということです。

 そして、自分自身が幸福者になってゆくためには曇りを解消すると共に、二度と同じ曇りを発生させない生活を心掛けてゆくということ、つまり「心・言・行」と「衣・食・住」に気を付けてゆく課題を持ちます。

 そういう日常生活を送らせていただくことが今日よりの信仰生活なのだ、御神業の推進なのだ、ということを心にお留めいただいてスタートしていただければ幸いであります。

 

メシヤ様と御尊称申し上げ、メシヤ様に、名前と職業と年齢と住所等を報告すれば浄霊力を授けることが許されました。このことを、先生と御縁を頂いた時より御教導賜り、最初は疑った人もおられたことでしょう。恐る恐るお守りを外し、御浄霊をお取次ぎさせて頂いたのではないでしょうか。

そして、各拠点の御守護報告にありますように、奇蹟の御守護報告に驚愕されたのではないでしょうか。今では『メシヤ様』と御尊称申し上げることは、私達の信仰生活に根付いております。

 

325日は、楳木先生が他界されて3年となります。

『天恩地惠 メシヤ講座・特選集』全七巻を三救の内部資料として作成いたしましたことを御奉告致します。およそ一巻200頁で、1号~180号と番外編も収録し最終巻には目次も付けました。

「メシヤ様の御教えに基づいて『教・論・律』を日々形成してゆく」信仰生活を歩みながら「宗教宗派、人種を超えて浄霊力伝授する」取り組みをより一層拡大してゆく。このことを御神業の根底に置いていただきたいと、望まれ御教導下さったことを3年の節目に振り返っていただき、新たな御神業に出発していただければありがたいと思います。

以上をもちまして今月の『覚りの旅』を終わらせて頂きます。