4月度『覚りの旅』のテーマの 「真の大乗宗教」 栄光二四二号 昭和二十九年一月六日
に関連すると思われるメシヤ講座をピックアップしていきます。

メシヤ講座・特選集(№98・平成21年3月分)より

『這(は)ってでも来い』『走ってでも行け』『どこまでも降りて行け』
組織論としての宗教
 二点目には組織論があります。メシヤ様は民間療法ではなく宗教を選択したというところに重要な意味があります。

 例えば、民間療法の場合、一回の施術の料金が決められます。これは対価として支払われるもので、解り易い反面“心”が反映されません。お世話ということではやり易い面があります。しかし“心”が反映されなければ徳が生まれ難く、結果的に救いに繋がり難いのです。メシヤ様は、宗教というものを通して人々を真の救いへ導こうとされ、決められた奉納金以外は全て自主性に任せられました。そこに積徳の道を開かれているのです。

 また、メシヤ様は“(病気を)治してもらう”のではなく“治す方法を教え力を授ける”ので“自分で治してゆく”ようにと願っているのです。この点を理解していない方が多いので、メシヤ様は繰り返し説かれています。少し長くなりますが、次の御教えを紹介したいと思います。

『信仰の合理性に就いて』

 『信仰の合理性に就いて、この間この欄に出したので分ったであろうが、なお最近それに関聯(かんれん)した新しい質問が、某中教会長からあったので、それをかいてみよう。これは二年程前入信した信者の事で、入信の動機は主人の肺浸潤が治ったためであるが、本年二月二つになる自分の子供が肺炎になったので、某支部長に相談した処、自分が治さして貰うといって、それから熱心に浄霊をしてくれたが、どうも果々(はかばか)しくゆかず、遂に危険に瀕(ひん)したので、数日前私の処へ御守護の電話がかかったのである。処がその時から大分よくなったが、まだ心配なので、今後どうしたらいいかを教えて貰いたいと、某中教会長に縋(すが)り、共々子供を連れた母親が来たのである。そこで私が答えたのは斯(こ)うだ。肺炎位の病気がそんなに長くかかるものではない。必ず間違った点があるからだ。その原因は二つある。一つの方も大いに間違っているが、これは個人的であるから秘しておくとして、今一つの方はより重大であり、中教会長にも聞かしたいと思って、私は詳しく話をしてやった。それはその子供の父も母も一、二年前入信しているのだから、我子の肺炎位は父か母が浄霊すればいいので、それで結構治る筈(はず)である。それを取違え自分は碌々(ろくろく)浄霊もせずして、支部長を煩(わずら)わすのであるから理屈に外れている。又支部長も支部長で、度々浄霊に赴(おもむ)いたというのであるから、どちらも全然間違っている。本来支部長たるものの役目は、未信者の開拓にあるので、已(すで)に信者となっている人は、神様から治病の御許しを得ている以上、家族の病気などは自分で浄霊すべきである。それを支部長の厄介になるとしたら、支部長の活動を御邪魔をする訳である。又支部長はこの意味を教えるべき筈(はず)なのに、それに気がつかないとは余程呆(ぼ)けているとしか思えない。しかし特別の場合神様にお許しを願って、少し位なら浄霊してもいいが、それ以上はいけない。

 つまり何事も理屈に合っていないから、御蔭を頂けないのであるから、中教会長、支部長、教師、役員など夫々(それぞれ)自己の階級、職責等をよく弁(わきま)え、不合理に亘(わた)らぬよう注意すべきである。これに就いても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、如何なる場合でも気がつくものである。

 これに就いても大乗と小乗との区別を忘れてはならない。一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調にゆくのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程でも御蔭は頂けるもので、少しでも御神業に御邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。何しろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、其処(そこ)をよく考えるべきである。(栄二百十三号・昭和28年6月17日)』

 この御教えは、救って欲しい時は『這(は)ってでも来い』、救って上げる時は『走ってでも行け』、『どこまでも降りて行け』というご精神を踏まえて拝読せねばなりませんし、『裁くなかれ』を心に据えて拝読しなくてはならないことは言うまでもありません。

 その上で、メシヤ様の御心を求めさせていただくと、誰にでも初心者の時期はあるものの何時までも依存するのではなく、自立した信仰を求めておられていることが拝察できます。一年、二年と経過したのならばそれ相応の姿勢を持たねばならない、ということです。

 また、私達が御教え拝読をさせていただく場合に注意しなくてはならないのは、自分に都合の良いように受け止めるところがあるということです。例えば、私も重く受け止めている『救われた体を私用に使ってはいけない』というお言葉は、現代人では「人格の否定」に受け取ってしまったり、「この位で良いのでは・・・」という甘い判断で臨んでしまうことがあります。

 そのような時には、深い愛を持って対応しなくてはなりません。相手の方の価値観が御教えに沿うところまで変容し、生き甲斐ある人生を送ることができ、真の救いを得るところまで導くことが大切なのです。ここに組織としての宗教が必要になります。勿論、その際、言動が脅迫信仰的なものになってしまうと、カルト化を招いてしまいますので、充分配慮をしなくてはなりませんが。

 そうしたことからも、生涯教育の場でもある宗教という形態が必要であり、メシヤ様は可能な限り全人類を救済する上で宗教を選択されたというように拝察できます。