「碧巌録」に
そったくどうじ【啐啄同時】という言葉がある。
 
またとない好機のこと。また、学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じること。鳥の雛ひなが卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが同時であるという意から。 

注記
禅宗で、師匠と弟子の呼吸が一致するときに、悟りが得られるということから。「啐」は、鳥の雛ひなが孵化するときに殻の中から鳴くこと。「啄」は、母鳥が外から殻をつつくこと。
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学ぶにも、師匠と弟子の呼吸が一致 することが大切なのですね。

突然この言葉を引いたのは、私が入信が許された時の教団が、総長指導で教えてくださったことを突然思い出したからです。

そこで、その先生の著書「光ありて」の中に「請求書的祈り」と「領収書的祈り」という項目が目につきました。
要約して引用させて頂きますと、

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国語辞典で「祈り」ということを引くと「神仏に加護・救済などを請い願うこと」とある。
「神仏に頼みごとをするために祈る。私にこれこれの利益をください・・・と願う」つまり要求・願望の祈りを評論家のひろさちやさんは「請求書的祈り」と名づけている。
神仏に請求書を突きつけるような祈りであり、そうした祈りをするのが宗教だ、と大方の日本人は思い込んでいる。と厳しく批判している。

本物の祈りは「領収書的祈り」である、とひろさちやさんは強調します。
「ありがとうございました」と神様に感謝する祈りが本物であり、そのような祈りをさせる宗教こそ、本物である、と言っています。

そして元総長先生は「請求書的祈り」「領収書的祈り」を私たちの信仰に当てはめます。
「請求書的祈り」・・・自分の幸せのみを考えるお陰信仰
「領収書的祈り」・・・「人のために祈らせて頂ける自分になれてありがとうございました。」「今日も一日元気に働くことが出来てうれしい」ということから始まる。

たとえ厳しい浄化に見まわれても「明主様、私の魂を浄めさせていただくチャンスを与えて下さってありがとうございます。浄化を頂いたお陰で、他人の痛み、苦しみに思いをいたす人間になれました」という祈りです。

人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとする。そしてさらには悩み苦しむ人々を救わせていただかずにはおれない、という利他の心から発する祈りだと思うのである。

ところが、信仰の初期の段階では、病気が救われる、経済的な問題を解決させて頂く、そのために「請求書的祈り」をしても神様は許してくださるだろう。しかし、信仰の奥座敷に進ませて頂くには、いつまでもその段階に留まっていてはいけない。自分に頂いたご守護への感謝だけではなく、他人様のためにお祈りをさせていただく、そうした段階に進んでいかねばならないのだ。

例えば、病んだ目が癒えるようにと祈り、浄霊をいただく、それはそれで正しい。そこからさらに、眠れる魂を揺り動かす、心の目を開眼させるのが救世教の祈りであり、浄霊である。自己の祈りから他者への祈りの転換、これが救世教の信仰、明主様が真に願われた祈りは、そういうものである。
 明主様に学ぶ 第一集 光ありて 中村力 著 株式会社東光 より
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もうずいぶん以前に学ばせていただいた本(平成6年発行)です。
楳木先生の最後の出版本が『入門と奥座敷』でした。
中村元総長からも幾度も総長指導という形でご指導を賜りました。
二人の師の『信仰の奥座敷』に私達は入れているのでしょうか。改めて信仰という事を原点に立ち返って見つめなおさなければならないなと思わせて頂きました。