人の意見を盲信せず必ず御神書を基準に判断すべき事 
御講話(S27年6月7日)
『それからもう一つは、人からいろんなことを聞きますが、それを正面(まとも)に信ずるということが、これがまた危ないですね。だからいろんなことを聞いても、なるほど良い、しかしこれは神様の御趣旨に合っているかどうかということをまず考えてみて、どうも神様の御趣旨に合わない点もあるようだという場合には、御神書を見るんです――読むんです。そうするとたいていなことはどこかにありますから、それで判断をするということにしなければならない。そういうことで聞違えることがよくありますからね。最近こういうことがあったですね。ある信者で、メシヤ教は天国を造るんで、家庭も天国にしなければならない。そうするとお金は、つまり余ってからあげる。あげても経済的に差し障りがないだけの金をあげる。そうすれば金の苦しみがないから、それが本当のやり方だ。苦しんで金をあげるということは、やはり一つの苦しみを作るのだから、それは神様の御趣旨に合わない。昔からいう「信心は徳の余り」というわけですね。それを聞いて、ある信者は感心したんですよ。それがだんだん広がって――苦しんで金をあげるから、だから家庭が天国にならないんだということにまでなった。そうするとまた一方神様は今非常にお金が御入用だ。人間は少しは苦労をしても神様の方にあげなければならない。という両方の説が対立した。しかしどうも後の説が負けるんですよ。最初の方が勝っていくんですね。どうもゴタゴタしているので、私が呼んでよく話してやった。私の話はこういうわけです。最初の、家庭が困らないようにするということも合っている。確かにそれに違いない。それから、神様はお金はたくさん必要だから――はやく地上天国を造って救わなければならないので、どんなことをしても金をあげなければならない――どんなに苦しんでもあげなければならない、ということも合っている。両方とも合っているんだ。ただ大乗と小乗だ。最初の方は小乗的考え方ですね。後の方は大乗的考え方ですね。じゃ、後の方は金をあげて苦しむかというと、決して苦しまない。金をあげてそんな苦しむような神様だったら拝むのを止めたらいい。だから試しにあげてご覧なさい。苦しむようにあげてご覧なさい。十倍になって返ってきます。苦しむどころじゃない。たいへんな金にだぶついてくる。そう言ってやったので、両方とも――小乗的の方はよく解って、ついこの間、謝りに来ましたがね。そういうことがあるんですよ。ですからそういうことも心得ておかなければならないということを、今話したんですがね。』

メシヤ様は間違って居れば注意されたが禁止されなかった事 
御講話(S27年4月1日)
『教団の中にも、間違った人や、いろいろな人がいますが、本当にいけなければ、私が注意を与えますがね。注意も、なすべからずとか、それを止めろとか――そういうことは言いませんがね。もし人が間違っても、この人は間違ったことをして、そのために覚るということもあるんだから、やはり頭をぶつけさせます。すると、ああ俺は間違っていたと覚ることもある。御神書を読んでも分らない人は自分で苦しむんですよ。それで覚りを開くということもある。間違ったことをさせておけば良いんですよ。「あの人はこういうことをしているが、あれは注意しなければいけない」と言うが、私は、「あの人は今に頭をぶつけるから、それから言ったほうが良い」と、その通り頭をぶっつけさせます。また人によっては、そういう苦しみをしなくても覚り得る人もある。そこで、人間はその人の行為によって善悪は決められない。それが大乗ですからね。そこまで心得て、そこまで信仰が深くなると、私はいろいろ言います。