「(ス)の文化とユダヤ文化」

 御教え集八( ) 昭和二十七年三月五日

 

「(ス)の文化」というのを書いているんですが( )いままでは丸ですね。ポチ・・・これが元なんです( )というのは( )いままでの世界は の力が出なかった。つまり主神は・・・人間で言えば親父(おやじ)が出なかった( )番頭なんです。だからいままでの神様は( )神様の番頭なんです。キリストだって釈迦(しゃか)だって( )番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父というのは主神ですからね( )だから肝腎の中心は( )みんな隠されている。丸だけしか見えないし( )それだけしか(わか)らなかった。で( )メシヤ教というのは( )主神の( )ということがあるんです。ポチですね。

 

  それから( )次のはこの前読みましたが・・三項目読んで( )次のを(これ)から読ませます。最近米国で結核菌を非常に急激に殺して(しま)う薬が出来たと言うんですね( )それを飲むと( )()きに全部の結核菌が死んじゃうと言うんで( )結核を簡単に治ると言う説を唱えているんですがね。で( )(これ)が日本に来るのは半年以上経ってから( )日本に来るだろうと言う事になっている。けれども( )未だ(はなは)だ不確実の様で( )はっきりは言ってないんですがね。で( )今も書いてある通り( )結核菌は伝染するんじゃないんだからね。自分でわくんですからね。だから結核菌を殺しても( )後々わいて来るんじゃ何にもならないです。元を殺さなければね。それが解らないんです( )今の犯罪者と同じです。犯罪者や貧乏人とね。犯罪者を警察や法律や刑務所や( )色々なもので無くし様としているんですが( )(ところ)がその元を無くさなければ( )何にもならないですね。元を無くすると言うのは( )人間の魂ですね。悪い事はしない。犯罪は犯さないと言うのを作らなければならない。それは信仰によって神様を知るんですね( )神様があると言う事を信じてこそ( )始めて悪い事が出来なくなる。その方法を全然閑却(かんきゃく)して・・閑却(かんきゃく)どころじゃない。そう言う事を言うと( )(かえ)って迷信だとか言って弾圧する。そうして結果である罪を一生懸命に無くそうとしている( )

  (これ)は何でもそうです。今( )食えない奴が出来る。税金で苦しむ。と言う事を言っても( )真面目で働いて居れば困る事はないんだから( )貧乏で困るのはないんです。唯( )困るのは病気です。病気で金を使う。だから健康になれば( )(これ)は解決するんです。だから根本の( )因を解決するんです。(しか)し今は( )根本と言うのは解決出来ないんです。根本をはっきり解っても( )どうする事も出来ないですね。今も言った通り( )結核菌・・それを殺すと言う事のみ医学は研究しているんです。そこで今( )私は書いている様に・・「 の文化」と言うのを書いているんですが( )(まで)は丸ですね。ポチ・・(これ)が元なんです。と言うのは( )(まで)の世界は の力が出なかった。つまり主神は・・人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。キリストだって釈迦だって( )番頭なんです。キリストは天の父と言うのは主神ですからね( )だから肝腎の中心はみんな隠されている。凡丈しか見えないし( )それ丈しか解らなかった。で( )メシヤ教と言うのは( )主神の力と言う事があるんです。ポチですね。だから( )(あら)ゆる人間の災い・・その根本を解決していく力・・その点がはっきり解れば大体分かる解るんです( )病気の原因も・・結核菌の発生すると言う事は( )霊の曇りですから( )霊の曇りを取れば( )結核菌の因がないから( )あと発生しない。と言うのは( )あと発生しなければ段々無くなっていくんです。人間に寿命がある様に結核菌にも寿命があるんです。だから( )段々無くなっていくんです。古い奴は段々死んでいくんです( )(ところ)が段々出来ていくんです。子が生まれて( )後々繁殖(はんしょく)する様に見えるので( )医学は間違えたんです。で( )菌を本当に殺す事が出来る様な薬なら( )人間も殺すんです。飲薬なら( )胃に入りますね。胃から腸にいって( )それが色々な消化機能の活動で( )薬は方々にいくんですね。身体中にいくとすれば( )その時分には( )殺菌の力は無くなってます。又注射すると( )血管をグルグル廻って心臓に行って( )肺の黴菌(ばいきん)(ところ)(まで)いくうちに( )もう気が抜けちゃっているんです。本当に殺菌するなら・・肺なら肺にやればそれは死にます( )グルグル廻っても()だ殺菌する力があれば・・毒の強い奴だと( )それは人間の命がないです。だから( )結核を殺す様に( )人間を殺す事になる。そうすれば徹底してますよ。それを一生懸命にやっているんですから( )哀れなものですね。




仏滅( )と五六七の世」文明の創造 昭和二十七年

 

それは経文(きょうもん)には三千(さんぜん)大千世界(だいせんせかい)とあるが( )(これ)も逆であるから( )私の善言讃(ぜんげんさん)()の中には(だい)千三千(せんさんぜん)世界(せかい)(なお)してある。というのは三千世界(さんぜんせかい)とは( )神幽(しんゆう)(げん)の三界であるに対し( )(これ)(まと)めて一つにすれば大千世界(だいせんせかい)となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され(たも)う意味である( )

 

 (その)後釈尊は素晴しい予言をされた。それは今より数へて五十六億七千万年後( )仏滅の世となり( )次いで彌勒(みろく)菩薩下生され( )彌勒(みろく)の世を造り(たま)ふ。彌勒(みろく)の世といふのは( )居ながらにして千里の先まで身を運ばれ( )居ながらにして千里の先の声を聴き( )居ながらにして千里の先から欲するものが得られるといふので( )(その)頃としては想像もつかない夢の世界である。(ところ)が現在の世界は最早(もはや)右の予言通りになって来てゐるではないか。としたら物質的には(すで)彌勒(みろく)の世となってゐるのである。(ところ)で今(まで)仏者が迷ったのは( )(この)五十六億七千万年といふ数字であった。(しか)(これ)一寸(ちょっと)考へただけでも()ぐ判る(はず)である。何となれば如何(いか)に釈尊と(いえど)も現実的に( )五十六億七千万年などといふ( )途方もない先の世の中を( )予言される訳はないからである。それ程先の世の中を予言したとて( )何の役にも立たないではないか( )言う(まで)もなく( )それ(まで)に地球はどうなるか( )テンデ見当もつかないであらう。(これ)は全く五( )( )七といふ数字を知らせんが為である。といふのは彌勒(みろく)の世とは( )私のいふ五六七の世界であって( )(この)五六七を解釈すれば( )五は日であり( )六は月であり( )七は地の意味になるからで( )(すなわ)ち順序正しい世界といふ事である。(これ)(つい)て一層深い意味をかいてみよう。

(まで)夜の世界といふのは( )日が天に昇ってゐなかった時の事である。勿論(もちろん)霊界の事象ではあるが( )(これ)を小さく地球に(たと)えてみればよく分る。夜は月が上天にあって照らしてゐたが( )段々地球を一周して( )西の(はて)から下って地球の蔭に隠れる。すると太陽が東から昇って( )中天に輝くとすれば( )(これ)が昼間の世界である。そうなれば天は火であり( )中界は水素の世界で水であり( )地は依然として地であるから( )(これ)が五六七の順序である。右を一言にしていえば( )昼の世界とは( )(まで)見へなかった日が( )中天に輝く姿で( )それが五六七の世である( )

 又釈尊は(ある)()弟子から( )仏教の真髄(しんずい)()かれた事があった。世尊は『左様一言にしていえば( )真如(しんにょ)である』と仰せられた。真如(しんにょ)とは無論(しん)(にょ)の月の事で( )(その)時既に仏法は月の(おしえ)である事を示されたのである。そうして真如(しんにょ)といふ文字は( )真の(ごと)しとかくのであるから( )真ではない訳で( )(この)点もよく考へなくてはならない。それから仏典では( )実相真如(しんにょ)と言はれてゐるが( )(これ)は逆である。何となれば実相とは( )真実といふ意味で( )(すなわ)ち昼の世界である。真如(しんにょ)は夜の世界であるから順序からいって真如(しんにょ)が先で実相世界は次に生れるのである。今一つ同じやうな事がある。それは経文(きょうもん)には三千大千世界とあるが( )(これ)も逆であるから( )私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。といふのは三千世界とは( )神幽現の三界であるに対し( )(これ)(まと)めて一つにすれば大千世界となる( )大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され(たま)ふ意味である( )

 次に釈尊は()ういふ事も()はれた。(この)世は厭離(おんり)穢土(えど)であり( )火宅(かたく)であり( )苦の娑婆(しゃば)でもある。又生病(しょうびょう)老死(ろうし)の四苦があるとも云はれ( )諸行無常( )諸悪滅法などとも言はれたので( )どれもこれも世を果敢(はか)なんだ言葉である。又一切(いっさい)(くう)とか空々(くうくう)寂々(じゃくじゃく)とか( )無だとも言はれた。そこで右の意味を総括してみると( )どうせ(この)世は苦の娑婆(しゃば)だから、苦は(のが)れられない。人間は生れながらにして( )苦しみを背負ってゐるのだ。いくら()()いたとて仕方がないから覚るのが肝腎だ( )つまり(あきら)めである。人間が如何(いか)に大きな望みを抱いたとて無駄であり( )一寸(ちょっと)先も分らぬ闇の世であるから( )安心など出来よう(はず)がない。そうして(この)世は仮の娑婆(しゃば)だから( )いくら骨折って造ったものでも結局は無になり( )空になって(しま)ふので( )何事も永遠性はない。だから一切の欲望は結局一時的煩悩(ぼんのう)にしか過ぎないのだから( )(あきら)める事だ。(あきら)め切って(しま)へば( )真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって( )(これ)が仏教の真髄(しんずい)であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語ってゐる。(この)意味に(おい)て万事は昼の世界(まで)の運命でしかない事を( )遺憾(いかん)なく示されてゐる。従って人間は実相世界が来るまで待つより仕方ない事で( )それが今日(まで)の賢明な考え方であったのである( )