平安初期の弘法大師作の観心寺如意輪観音の法輪に魅せられて描いてみました。

観心寺 如意輪観音
 
観音講座  第三講座 昭和10年8月5日
 玉の横の丶を上に掲げると主になる。玉の字は非常に貴い字である。伊都能売とは円満滑脱である。玉はくるくる自由自在にどちらへでも転んで行く。神様に角があっては善良な神様とは言えぬ。丸くならねばならん。丸いから転るのである。自由無碍に転るのである。
 法輪を転ずるとは観音様の事である。滑稽洒脱(しゃだつ)である。大いに笑わせるのである。観音行に近い人程丸いのである。どんな人にも合わして行かねばならんのである。怒るのは真丸ではない。人に突掛るのは角である。観音行はこの角が取れなければ丸くなる事は出来ない。又湿っぽくては駄目である。笑冠句(わらいかんく)を奨励するのはこの意味からである。笑ったり笑わしたりすれば、自然に天国状態となり、円満になれるのである。世界の平和とは争がなくなる事である。


霊界に於ける昼夜の転換 『文明の創造』昭和27年
 今一つの神秘がある。それは法華経二十八品の数である。二十八の数は、月の二十八宿を表わしたもので、その二十五番目に普門品があるのは、二十五の数は五五、二十五で、五は日であり、出づるであるから、日の出の意味である。つまり月の仏界に日が生まれた表徴である。すなわちこの時既に夜の最奥霊界には、ほのぼのと黎明の光が射し初めたのである。そうして面白い事には、外の仏教は全部西から生まれたに対し、独り日蓮宗のみは東から出ている。しかも安房の清澄山こそ、日本における最も東の端で、この地点こそ大神秘が包蔵されている事は、私が以前書いた自観叢書「奇蹟物語」中に概説してあるから参照されたい。つまりこの地が霊界二次元における昼の世界の初発点であるのである。
 次に日本において、なぜ仏法の花を咲かせなければならないかというと、そこにも深い密意が秘(ひそ)んでいる。すなわち花が咲かなければ実が生らないからで、その実というのが実相世界であって、この実の種が如意輪観音の御働きでもある。私がいつもいうごとく、観世音は日の弥勒であり、阿弥陀が月の弥勒であり、釈迦が地の弥勒であり、この三人の仏陀が三尊の弥陀である。とすれば阿弥陀と釈迦は、夜の世界の期間の御役であったに対し、観音は昼の世界にならんとする、その境目に観音力を揮(ふる)わせ給うのである。この経綸こそ昔印度(インド)において仏法発祥の時すでに誓約されたものである。