次回の『覚りの旅』も奇蹟集がテーマです。『伝道の手引き』から奇蹟について。

 〇奇蹟発表座談会を大いに行うべき事〔御講話(S26年9月5日)御垂示録2号、昭和26年10月10日    『それから座談会がないですが、座談会をやると良いですね。この間も言ったが、奇跡の座談会ですね。お互いに奇跡を語り合うということですね。』 


〇必要によって奇蹟を見せられる事 地上天国8号、昭和24年9月25日
 ①
「先日光明如来様の御書体の前で患者を浄霊いたしておりますと、急に家族の者が御書体が動くと言い出しました。振り返ってみますと左右に静かに一定の速度で揺れています。それと同時に私の左肩が強く締めつけられるようになり、左手が動かなくなってしまいました。御書体は十五分ほど動揺し、その間二回ほど前後にも動揺し部屋中蜘蛛の巣を張ったように一面光に満たされ、御書体が静止すると同時に私の手も動くようになりました。なにか霊的原因でございましょうか。」
    『神様が不思議を見せてくだすったものである。例えばその人に早く信仰を進める必要ある場合にいろんな方法で奇蹟を見せてくださる。またその人により近隣の人を早く救うとか、その土地を早く開かねばならぬ必要のある場合不思議なことを見せられるものである。これは光明如来様は紙に文字を書いただけと思うといけないから生きておることを見せられたものである。』
 ②
御垂示(S28年6月1日)御垂示録21号、昭和28年6月15日
    「未信者の座談会に教師の者がまいりましたとき、十人ほどいた人が皆バッチの四隅の白い所に『地上天国』の日の出観音様が見えるということがございましたが、これは霊が低いからでございましょうか」
    『それは神様がそこを早く開くために奇蹟を見せてくれたのです。』

  〇奇蹟で教化する事を主として御説教を従とする事
御講話(S28年2月15日)御教え集19号、昭和28年3月15日
    『今度『救世教奇蹟集』という本を出すつもりで、その「序文」だけ書きました。そして今まで発表しただけの奇蹟のすばらしいものを出します。それで結局宗教の価値ということですが、つまり宗教ではたいした奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。宗教以上というと救世教より他にはありません。そこで救世教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。今までの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。もっとも日蓮上人のような傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。しかし救世教では、私の弟子がキリストがやったような奇蹟も行なうし、他の宗教の教祖がやるようなことは、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。だから奇蹟の顕著なことと多いことが宗教の値打ちです。ところが既成宗教はそういうことがないので、だんだん理屈の宗教になっていったのです。一般に対してはお説教宗教です。大体お説教というものは宗教ではないのです。それは道徳です。「人間はこういう気持ちをもて」とか「こういう行いをしなければいけない」と言うが、そういう道理を説いて心を良くするということであっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。ところが奇蹟を現わすことができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。だから私の方では、あんまりお説教はやりません。しかしそれも少しは結構です。ところが今までの宗教はお説教専門なのです。また、「こういうように養生しなければならない」「こういうものを食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない」というのでは本当のやり方ではないのです。そういうのではしようがありません。黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。というのは、やはり宗教が持つ力です。その力を現わしたものが奇蹟となるのです。それで奇蹟は科学的にも説けるのです。だから本当は奇蹟ではないのです。よく奇蹟が現われると言うが、それはどうしても理屈がつかないので「ただ不思議だ」と言うだけです。けれども本当は理屈がつくのです。』