日常生活に浄霊を生かしていく基本的な取り組みが大切なんだと思います。

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2019年06月22日
『観音講座』を入会時には学ばせて頂きますが、以前は資格者資料というものをメシヤ講座に掲載されておりました。

対象者が浄霊を日常生活に活かし、御教え実践を通して人格の向上に取り組むようになるためには、教修取り次ぎ者自らが率先垂範せねば言葉に力は宿らない。

この先生の想いを胸に、御霊の向上が許されますよう精進してまいりたいと思います。

 <資格者資料>
【教修を取り次ぐということ】
メシヤ教

<意義>

絶対的救済力である浄霊力は、宗派を超えて誰にでも伝授できる時代を迎えた。これは、メシヤ様のご神慮によるものであり、、その恩恵に浴した人々が安心立命の天国的生活を手に入れることは無上の喜びである。メシヤ教を機関として民族、思想、宗派を超えて浄霊力伝授ができることに心より感謝申し上げたい。

浄霊力を身につけるためにメシヤ教へ入会する必要はないが、浄霊力伝授という意義深い取り組みに賛同し、それを支え共に行動し、徳積みを志す崇高な人々もいる。真の意味での「選民」である。その誇り高き人々に入会手続きの説明をすることが「教修」である。

<願い>

メシヤ様のご精神を現代に求め、「時代苦」を救う担い手となり、同時に「時代の中」に活き活きと生きることができる人になるように導く。

<基本的姿勢>

自らの信仰、体験(お蔭話)に基づいて、自らの言葉で誠をもってお取り次ぎする。

<心得>

私達が信仰させていただいているメシヤ教の主宰神は、最高最貴の神様である。メシヤ様は『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかないのである』と教えられている。メシヤ教の御神体が定まった所以(ゆえん)でもある。

故に、既成概念で理解することは難しく、「神様のことは、よく解らない」という態度が素直な、正しい認識と言える。私達が「神様」という言葉を発した瞬間に、その存在を限定し、規定してしまう。そして、そのご存在を小さくしてしまう。教修取り次ぎ者に真摯な信仰姿勢が求められるところである。

また、本教は、他のどの宗教よりも神様の存在を実感することができる宗教である。ご発現される御力が絶大であり、前例のない大いなる救いの業があるからである。浄霊である。自信と誇りと感謝をもって取り次ぎたい点である。

ところが、この浄霊の業も既成概念で捉えた瞬間から、その力を限定してしまう。浄霊は無限の力である。いただいた奇蹟を、ありのままに清々しく爽やかにお取り次ぎすることの大切さがそこにある。

浄霊を取り次ぐ、浄霊をいただく、お祈りする、ご奉仕に臨む、御教えを実践する、それらの取り組みの中で、あるいは日常生活の中で絶大なる奇蹟を許され、私達は神様の存在を身近に認識する。その神様が垂れた御教えだからこそ、真理と信ずるのである。「神の言葉」であることを強く認識したい。

その「神の言葉」をお取り次ぎし、お取り次ぎしつつ自らも学んでゆく、ということが教修であるということを心得たい。

なお、教修は、便宜上七講座に分けて取り次ぐことになっているが、出会いを許されて浄霊をいただき説明を求められた時から教修が始まっていると考えたい。その心構えで接することはもちろん、佇まいを整えてゆくことも大切である。場だけでなく、立ち居振る舞いである。

対象者が浄霊を日常生活に活かし、御教え実践を通して人格の向上に取り組むようになるためには、教修取り次ぎ者自らが率先垂範せねば言葉に力は宿らない。

(次回から一講ずつ掲載してゆく。)

<資格者資料>
【教修第一講・宗教について】     メシヤ教

教修の前提

<話すことの難しさ>

私達が信仰談をする場合に重要なことがある。それは、話す側に主導権があるか、聞く側に主導権があるか、ということである。非常に難しい事柄ではあるが、どのように受け取られたか、が問題である。「どのように話したか」ではなく、「どのように受け取られたか」が優先する。

そんなややこしいことまで考えて取り次ぐのか、と受け止めた瞬間に、新たな問題を発生させている、と判断せねばならない。それほど、教修とは難しいことなのであり、真摯な姿勢が求められるものなのである。

<時代の精神を見つめる>

そこで、聞き手がその人生で育んだ宗教観に関心を払いたい。「宗教は尊いものだ」と受け止めつつも、組織のあり方、運営のあり方に疑問を抱えていることもある。様々な意識をもって本教を見つめていることを充分承知しておきたい。時代の精神もそれに大きく影響を及ぼしている。

現代社会は、人々が総中流意識をもち社会の均一化が進んだと言われたところから「格差社会」が懸念されるようになり、人々の苦しみが「病・貧・争」に整理されるほど単純ではなくなった。

また、若年層で死後の世界を肯定する人が増えている、という調査結果が後を絶たない。幽体離脱現象は科学的に検証されつつあり、癲癇の研究段階で大脳右側頭シルビウス裂に電極を当て刺激を与えると幽体離脱現象が生じた、とする報告もある。神秘体験への関心は高まりつつあるのである。

とりわけ興味深いこととして、豊かな社会、情報化社会の特徴として、超能力、オカルト、神仏を信じる人が多いという報告がある。しかも、理科系の学生やコンピューターの技術者といった意外な立場の人達の間に信じる人の割合が高い。

逆に宗教に最も距離が近そうに見える中高年層は、割合が低い。これには第二次大戦が関係しているらしい。精神修養を強制され、しかもその対象は国家神道であった。それが敗戦によって裏切られた。反面、日本では明治維新後の近代合理主義の台頭と相俟って、成長過程で‘科学する心’の必要性を植え付けられた。

そこから生まれるものは、宗教や信仰に対する不信感であり、「奉仕に対する疑問」、「特定の宗教組織に属することの被服従感」、「自由の束縛感」、「罪意識の自覚は敗北感」であると専門家は指摘する。公衆道徳は反ってこの世代の方が悪い、と指摘する向きもある。

一方、第三次宗教ブームにおける、宗教への入信動機の特徴は、前出の中高年に比べ若年層は、「もっと自分を高めたい」、「世紀末的宗教への関心」、「超能力、オカルトへの関心が宗教に向かう」、「科学か宗教かという対立ではなくて、科学も宗教もという共存の時代認識」、「自己実現の欲求」、「他人と違う自分を見つけ出したいという欲求」ということが多い、と分析されている。

この二大特徴というのは、霊的知識の低さと人間観の未確立が根底にあり、興味本位に流れやすいところから生じる。そして、それらに付け加えて現代人は「履き違えた民主主義」、「経済至上主義」、「マスメディア」から、無自覚の内に視野狭窄状態へと追い込まれている。氾濫する情報に囲まれているにも関わらずである。

<本来の宗教とはどういうものか>

これ等の問題点は、宗教を正しく認識することで打開できる。宗教は人間のみがするものである。当たり前のことであるが、人間以外の動植物はしない。一部信仰の対象になることはあるが、宗教の場は人間生活である。古代の人間生活全ては宗教であった。大きな視座で見つめてみると、いわゆる現在の文化形態というものは宗教から遠心分離的に発展してきたものである。

遡って人類史を見つめてみたい。人類の起源は何時かという疑問に対しては、ネアンデルタール人の遺骨に花粉が付着していた、ということから葬儀をしたのではないだろうか、ということが一つの答えになっている。死者に花を手向けた、ということからである。花を手向けた、ということは、死を悼んだということである。

動物の死骸を日常生活で見付けることはできない。交通事故死したものやペット、家畜、動物園で飼育していたものの死骸は目にするが、それ以外は目にはしない。動物は本能的に死期を知り、自ら場所を決めて葬送を執り行なうからである。

しかし、人は自分以外の者に葬送を執り行なって貰う。葬送を執り行う際に死を悼む言葉を掛けるが、この言葉を持つところが人類の起源と考えられる。言葉を持つことで思考することができ、感情も表現することができた。ではどうして言葉を持つことができたのであろうか。

およそ600万年前にアフリカのジャングルから草原へ下りて来た類人猿がいたことになっている。木にぶら下がらなくなったので、やがて二本足歩行をするようになる。このことにより画期的な進化を遂げる。前足に脳を乗っけているうちは脳自体を大きくできなかったが、二本足歩行をすることにより脳を後ろ足へ乗っけるようになると、脳を大きくすることができた。また、呼吸法も変わり、そのお蔭で言葉を発することができるようになったのである。

この言葉を持つことにより、思考するようになった。利便性を図る道具を考案することもできるようにもなったが、何と言っても、死を悼み、死者を弔うことを行なうようになった。これが人類の始まりであり、動物との決定的な違いである。人間生活が宗教の場なのである、という所以である。

『神は何万年前から細大漏らす処なく、慎重綿密なる準備をされていた』(文明の創造・前回掲載分)という御教えと符合する。ネアンデルタール人は20万年前から3万年前ということになっているからである。

<葬儀を考える>

「人」の始まりは葬送という宗教儀式を執り行なったことからである、とすると「葬送とは何か」ということにも関心が寄せられる。そこで葬送について触れておきたい。

葬儀においては、おおよそ死者の悪口を言わない。死者を讃える。これは、死者の生き様の中で讃えられるべき事柄を述べ、「あなたの素晴らしきところを受け継ぎ、今後心掛けてまいります。だから安心して旅立ってください」と誓うのである。当然ながら、反面教師的なところもある。それは「受け継がないようにしよう」と自らに静かに誓うのである。

実は、こうしたことを連綿と積み重ね、遺伝子に刻み、進化を誘ってきたのである。葬儀により人類は進化してきた、といっても過言ではない。そうすると、故人の意思を大切にすることが葬儀の本質的意義ということにもなる。

しかも、その延長線上に宗教を中心とした人間生活が形成されてきたのである。

<現在の文化形態は宗教から遠心分離的に発展したもの>

そこで再度、現在の文化形態というものを見つめてみると、宗教の要素が遠心分離的に発展してきたもの、と捉えることができる。

たとえば、現在私達は法律というものを活用して円滑に社会を運用しているが、法律とか政治というものは、そもそも宗教儀式から生まれたものである。

古代生活では、集落の人々を守るために「あの山には毒蛇が生息しているので、立ち入ってはいけない」という掟(おきて)を作る。これは、一日の歩行で往復できる距離が原則となる。そうした集落で、若者がその禁足の山へ立ち入り毒蛇にかまれ瀕死の状態で運び帰られたとする。

この場合、祈祷は後回しである。まず、集落の全員が集められ「本日この者は掟を破りあの山へ入ってしまった。そして毒蛇に咬まれた。二度とこのようなことをしないと誓うか」と問い掛けるのである。全員が誓ったならば、祈祷を開始する。解毒と体力の回復を働きかける。

この「掟」が「法律」へと進化し、事故の再発を防ぐ「誓い合い」が「政治」へと進化した。また、「解毒」や「体力回復」が「医学」へと進化したのである。

また「集落の言い伝え」が、「民俗学」や「哲学」という形へ。解毒は「化学」へも進化し、「星座」による位置確認が「天文学」というように、「道具の発明」から「科学」などなど、宗教の要素は細分化され発展を見た。

スポーツや芸能、音楽にしても村祭りから現在の形態が生れたのである。このように宗教というものを中心において、次第に遠心分離的に様々な要素に細分化したのである。そして発展してきたのである。ところが同時に弊害というものも生れている。

根本にある宗教の忘却である。現代の諸問題は根本にある宗教を忘れたために発生している。故に諸問題を解決するには根本の宗教を思い出すことが不可欠なのである。実は、本来的に信仰をするということは「文化の根本にあった宗教を思い出し、社会の諸問題を解決する」営みなのである。そのことを入会する前提として、認識していただくことが肝要である。

<相手の立つ位置>

時代の移り変わりに対する整理をし、「宗教をするということは何か」を再認識していただき、そのことにより、現代という時代において信仰生活をする意味を見い出していただく。そしてそのことは、その人の人生を評価することでもある。

初めて宗教というものに触れた人は「本来の人間生活」を学び、「人生に意義を見い出す時を迎えた」ということである。今まで他の宗教を経てきた人は「苦労し、努力した結果、最高位の神様へ辿り着いた」ということなのである。

とは言え、冒頭述べたように宗教に対する様々な概念を抱いていることも事実である。これは多分に宗教団体という組織に対するものである。メシヤ様が『本教には、キリスト教、神道、仏教を始め儒教も、哲学も、芸術も、悉く包含されている』と述べられている真意はここにある。

また、この御教えは、人類が「より良い人生」を求めて模索したものの最高峰に本教が位置することを示されたことでもある。従って、本教への入会を「改宗」と考えてしまうと、非常に狭い捉え方となる。

相手の人生が辛いものであったか、苦しいものであったか、ムダと思えるものであったか、それとも有意義なものであったか、理想的なものであったか、人様々である。しかし、御教え通り、この世の中は全て「必然」で成り立っており、一つのムダもない。一人ひとりの人生の中で、段々と「心が求めていたもの」「魂が求めていたもの」へ近づき、今、出会えたのである。

もとより宗教価値があらゆる価値の最高位にある。最高位の価値観を身に付ける段階に入ったことを評価した上で、「入会とは人生の好転」であり「さらなる進展」であることを伝えたい。

以上を認識した上で、『信仰読本』の「(一)序―宗教について」を自らの信念と言葉でお話をする。

(次回は二講を掲載。)

 <資格者資料>
【教修第二講・世界救世(メシヤ)教とは】
メシヤ教

<共に拝読する>

第二講は、『開教の辞「世界救世(メシヤ)教の誕生に就(つい)て」』と『世界救世(メシヤ)教 教義』という御教えを共に拝読する、ということで十分である。

<拝読の仕方の工夫>

共に拝読して、相手の理解度に応じて補足を加える。真理を追究する作業なので、自分の信仰に懸けて対応する。

大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。次の段階として、自らに置き換えて拝読する習慣付けを目指す。御教え拝読というものを相手は初めて経験する場面なので、最初の取り組みで御教え拝読の方向性が決まってしまう。それだけに大切なのである。

御教え拝読は、真理を学ぶ、ということであるが、最大の願いは学んだ真理を生活に取り入れて実践し、幸福になってゆく、ということである。何故なら『生きている人間を幸せにしなければ何にもならない』と断言されているからである。

それ故に、『信仰即生活』という観点から御教えというものを拝読する場合、その内容を全て自分に置き換えてゆく、ということがもっとも大切な作業である。

<世界救世(メシヤ)教 教義>

「世界救世(メシヤ)教 教義」をトータルで理解していただいた後、自分に置き換えた場合にどのように読むことができるか、ということになる。

ここで例題を示すので、臨機応変に活用して考えてみていただきたい。

<抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである>

この部分を「そもそも我が家の先祖は」としたり「私の夫は」と置き換えてみると、「そもそも我が家の先祖は我が家を天国にするように・・・・・」とすることができる。また、「私の夫は結婚当初より我が家を天国にするように・・・・・」とすることもできる。

もちろん妻であっても、両親であっても、子供であっても、ご自分であっても結構である。

ここでは「私の夫は」として、各文章を当てはめてみると、まず「そもそも私の夫は、我が家を天国にするために私と結婚した当初から生活しつつあることを私は信ずるのである」と、することができる。

そのことを信じて結婚もしたのであるし、夫婦生活を営んできたのである。いかがだろうか。

<これに対して人間を神の代行者とされ給うと共に、一切万有は人間の為に造られたものである>

そうすると、「これに対して私を夫の代行者とすると共に、家事一切は代行者たる私のために用意されたものである」と続く。

煩雑な家事も雑務も全て「我が家を天国にする」ためにこなすのである、と受け止めているのである。

<故に今日までの人類史はその為の準備工作に外ならない事を信ずるのである>

「故に、今日までの夫婦の道のりも、結局は天国を造るための準備工作であった、と信じている」

それまで幸福感に満たされていたか、あるいは苦労の連続であったか、いずれにせよ「我が家を天国にする」ための準備段階であったのである。そのように受け止めている。

<従って、神はその時代時代に必要なる人間と、必要なる宗教を顕(あら)わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである>

「従って、主人と共に子供を儲けて、共に人生の指針を得て生活してきた」

そうであるからこそ、「我が家を天国にする」ために、必要なる子供も許されたのである。しかもそれぞれの使命をいただいているので、時には親の言いなりにはならない場合もある、と考えることができるというような受け止め方になる。

また、ご近所の方も姑などもそれぞれ使命を持って存在している。皆役割を持って生活しているのである。

<後半 ― 信仰に出会った意義>

こうした受け止め方の上に後半を拝読すると、「我が家を天国にする」ためにメシヤ様とご縁をいただいた、という入信の意義がより明確になる。

つまり、まとめは「メシヤ様とご縁をいただくことで私が我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということになる。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識を共有したい。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そのために、第三講のテーマはメシヤ様である。さらに学びを深めたい。

お世話とは、メシヤ様の愛に包まれていただくことである。それを可能にする重要課題は、御教えを自らに置き換えて拝読する、という姿勢を共に持つことである。重ねて肝に銘じていただきたい。

(次回は三講を掲載。)

<資格者資料>
【教修第三講・主宰神とメシヤ様】
メシヤ教

<信仰行とはメシヤ様の追体験>

第二講では、「我が家を天国にする」ために「メシヤ様とご縁をいただいた」という入信の意義がより明確になった。「メシヤ様とご縁をいただくことで自らが我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということであった。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識も共有した。

その背景には祖霊のお導きもあり、また当然ながら自らの魂が希求して、やっと辿り着いたということもある。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そこで、メシヤ様のお姿を客観的に見つめる作業が不可欠となる。

<共に読み、確認する>

第三講では「信仰読本」の「四、主宰神」と「五、教祖」を共に読み合い、相手の理解度に応じて補足を加える。第二講同様に大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。補足を加える上で心しておくことを確認したい。

信仰生活で誰もが気になるのが、神様への祈りの内容である。祈り方、祈る姿勢と言ってもよい。これまでの神様への既成概念によって勘違いや取り違いを起こしている場合があるので、相手に安心感を与えることを心掛けつつ、自らの体験に基づき神様へ真向かう在り方を取り次ぐ。

主之大御神様のご存在を既成概念で捉えようとすると、そのご存在を限定してしまうことになるのである。既成概念とは、例えば「罰(ばち)が当たる」といった躾けられ方をされたり、「怨念」を封じ込めるために神社仏閣を建立したとする解説書を読まされることを通して刷り込まれる概念である。それらは最高位の神様のお姿とは程遠いものである。

『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである』というメシヤ様のお言葉を心にして、御神体に向かう姿勢をもちたい。

メシヤ様というご存在―『私の名前を呼びなさい』

「教祖」の項で、メシヤ様というご存在を学ぶ時に大切なことは、大きく高い存在ではあるが、正しい願いは必ずお聞き届けくださるということである。正しい願いとは何かということを知るために御教え拝読がある。御教え拝読が日常生活に定着するように導きたいところである。

また、『困った時、助けてほしい時は、すぐその場で私の名前を呼びなさい』とメシヤ様は仰ってくださっている。安心感を与えてくださるお言葉である。身近にメシヤ様と共にある生活を心掛けていただきたい。

空理空論ではなく、実在する神様を身近に感じながら生活するという『信仰の醍醐味』を味わっていただくように導きたい。

メシヤ様というご存在―『神様にも感情がある』

その上で、私達が忘れてはならないのは『神様にも感情がある』というお言葉である。これは、“困った時の神頼み”式のあり方ではなく、常日頃から絶えず自らを顧みつつ生活する大切さを説いてくださっているのである。

そして、何処に身を置いていようとも、神様の御心を求めて、御心に適う生活を送ることが大切なのである。神様と共にあるという安心立命の生活を実現できる歩みである。

新たに信仰の道を歩み始める人に、特に確認しておくべき内容である。顧みる鑑とはメシヤ様のご精神である。

メシヤ様というご存在―『私の心が共通し拡大されること』

私達は自分が救われるだけに止まらず、この地上が天国になることを切望している。

地上天国とはメシヤ様の御心が共通し拡大されることである、と本文中に引用した『私というもの』で示されている。神様である身でありながらも、尚且つ実践されている内容である。繰り返し拝読したいところである。

しかも、メシヤ様は生涯一貫して実践されたことがある。幾つか列記してみると、

・挨拶をする
・嘘をつかない
・時間を守る
・約束を守る
・整理整頓をする
・物を大切にする
・無駄をしない
・人の話を根気よく聞く
・言葉を大切にする

等々である。やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な、至極当たり前のことを途中で止めることなく、継続されて取り組まれたのである。救世主として偉ぶることなく、人としての心掛けを貫かれた。

人間の理想像として、特にそのお姿を鑑としたい。

メシヤ様からいただくもの

私達の入会までの苦労は、メシヤ様が教祖となるまでのご苦労には比べようもないが、少なくとも救いの力と言葉を身に付けさせていただく準備期間であると捉えた時に、どれ程救われる思いに浸れるかということである。

ご縁をいただくまでの苦労が大きく感じれば感じるほど、「だからこそ、メシヤ様に辿り着いたのだ」という繋がりを確認していただくことが欠かせない。

そしてまた、教祖となる方は苦労して得た「救いの言葉」を絶対に忘れない、ということである。私たちも同様「忘れない」ということが最重要課題なのである。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」であってはならないのである。

メシヤ様の追体験をさせていただく際に、大前提として救いの力である浄霊力を授かった感動、感謝を忘れないという心構えがなくてはならない。

メシヤ様の信仰概念

最後に、メシヤ様は『(他の宗教に)何時転向しても差支えない』と仰っており、自由なる信仰を強調されていることを確認しておきたい。同時に、他宗教の教師(牧師や僧侶等)であっても、それを止めることなく入会しても良いということである。

全く自由な雰囲気の信仰を求められたのである。冒頭「自らが我が家の救世主となり・・・」という表現を用いたが、救世主であったとしても独善的ではなく、常識的な普通人としてのご日常であったことを肝に銘じておきたい。

そうしなければ、変に宗教臭くなり、如何にも思い込みのきつい雰囲気、一方的な頑なさや偏屈さだけを漂わせてしまう。

また一方、宗教のあるべき道について『宗教は霊肉を完全にする。それ丈(だけ)やればいい』とメシヤ様は簡明にご教示されている。何と判り易いことであろうか。人々の心と身体を真に健康にすることを願い、そのことに貢献する。

浄霊を中心にして霊の曇りを解消し、薬禍薬害を知らせ自然農法、自然食品を普及し、心身を健康にして差し上げる。更には、霊主体従の法則、浄化作用の原理などの御教えを宣べ伝え、幸運者へと誘う。「芸術による天国化」、「芸術による人格の向上」を唱導し、地上天国建設に寄与する。

何と心躍る行為だろか。それを共に取り組んでゆくことを通して自他共に幸福へとなってゆくこと、それが入会の意義であることを確認したい。次回から、その具体策に触れてゆく。

(次回は四講を掲載。)

とのことだが、この後第四講はメシヤ講座には掲載されておりません。