令和元年6月
 令和元年6月度 覚りの旅を終えて
三救責任者
今日は、121頁です。お願いします。

参加者
「序文」 世界救世(メシヤ)教奇蹟集 拝読

「序文」 世界救世(メシヤ)教奇蹟集  昭和二十八年九月十日

 この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。今その理論を説くと共に、裏付けとして我救世(メシヤ)教における数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。そうして昔から宗教に奇蹟は付物とされているのはあまねく知られているが、その眼をもって見ても本教奇蹟の余りの不可思議さに到底理屈はつかないと共に、その一つ一つが体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はあるまい。としたら日本の一大誇りとして、一日も早く全世界に発表する義務があると思うのである。しかもこの事は二十世紀後半、今日まで何人も夢想だもしなかったところの一大驚異であり、これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。と共にそこに深い意味がなくてはならないはずである。ではその意味とは何かというとそれこそ宇宙の主宰者たる主神(すしん)の御目的の一つの現われであって、その理由としては現在の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙(しょうがい)となっている以上、これを根本的に除去しなければならないからである。何よりもこれ程文化が進歩発達したにかかわらず、 人間最大の欲求である幸福はそれに伴わないのみか、反って不幸は益々深刻になりつつある現状である。ではその欠陥とは何かというと、これこそ科学至上主義であって現代人が科学によらざれば何事も解決出来ないとする科学過信というよりも科学迷信に捉われている事である。ここにおいて神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって、これも全く時の然らしむるところである。もちろんこの迷信発生の動機こそ、見えるものを信じ見えざるものは無とする唯物一辺倒の考え方に外ならないので、この誤った考え方を是正し、今日まで不可視とされていた霊なるものの実在を認識させるべくその方法としての唯一なものが奇蹟である。
 ここで重ねて言いたい事はもし唯物科学が真理であるとしたら、これが進歩するに従い人類の苦悩は減り、幸福は増さねばならないはずであるのに、現実はその反対であるとしたらここに疑問が生ずる。なるほど絢爛(けんらん)眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、一切の機械化等々唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、肝腎な精神的幸福は零でしかないのが事実である。とはいうもののこれも深甚(しんじん)なる主神の経綸であって、今日まではそれでよかったのである。すなわち神の御目的である理想世界を造るには、その条件としてまず物質文化をある程度発達させなければならないからで、それには唯物観念が必須であったのである。今日まで治乱興亡限りなき人間争闘の歴史も、人類が経験し来ったあらゆる苦難も、そのためであったのは言うまでもない。しかしこの事は無限ではない。いつかは是正される時の来るのは必然であって、それが今日であるから、唯物科学は最早二義的存在となり、唯心科学が一義的存在に転化 するのである。右のごとく唯物、唯心の両科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、その担当者としての私という事が分って貰えばいいのである。そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼(か)のキリストの奇蹟である。盲の眼を開き、足蹇(なえ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ませた事なども、葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他はもちろんあったに違いない。ところが本著にあるほとんどの奇蹟はキリストと同じ程度か、それ以上のものさえあり、そのことごとくが私の弟子が現わすのである。としたら正直にいって実に歴史を覆(くつがえ)えす程の大問題であろう。
 またキリストのいわれた「世の終り」とはこの唯物文化時代の終りであり、ついで「天国は近づけり」の予言は、今や生まれんとする高度の文化時代を指したものであろう。従ってこの事が信じられる人にして、真の幸福人たり得る事は、何ら疑うところはないのである。私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくとして、この意味において読者は本教を目す場合、従来の宗教観を捨て宗教以上の超宗教として遇(ぐう)せられん事である。
(この著は英訳して全世界に頒布するつもりである)

三救責任者
はい、ありがとうございました。
本日は、世界救世(メシヤ)教奇跡集です。奇蹟集の本書がございますのでご覧ください。
それで、今朝、比較してみました。
ちょっと、気になったところがありまして。・・・。

図―A

1-6 1奇蹟集表紙


図―B

1-6-B

三救責任者
123頁の4行目、メシヤ様を通じてって言われてるんですよね。この奇跡。
123頁、「真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって」ということですので、これはメシヤ様を通じてという事なんだなと。「奇跡の元はメシヤ様を通じて」ということ。
それと、124頁の5行目ですね。いつかは是正される。
「いつかは是正される時の来るのは必然であって、それが今日である」と。今ですね。是正される時は今ですよと。今、その時を迎えているんですよと。
ということと、これは最後の方に出てきましたけども、唯物科学と唯心科学の両科学というのは霊主体従の関係にあるんだと。唯物がダメだよって言ってるんじゃなくて、歩調を共に前進すること。いわゆる宗教と科学の一致ということが、この文章は言いたいのかなと思って、今朝読んでいました。

図ー1

1-6-1

三救責任者
これはブログに載せたもので復習していきますけども、世界救世(メシヤ)教奇蹟集ということで、発刊の御意図は何かなぁと。
序文ですから、そういったことが書かれているだろうということで、

世界救世(メシヤ)教は奇蹟を見せている。
他の宗教とは奇跡を見せるから違うんですよと。奇跡が違うということね。奇跡が多いということ。
奇蹟はなぜ起きるんでしょうと。
それは、メシヤ様が居られるからだと。居られるからだということは、今ではメシヤ様の御存在を認識できるかどうか、認識することによって奇蹟が出るんですよという事を言われてるんですね。
そうすると、メシヤ様とはどのようなお方なのだろう と。
メシヤ様の御神格はどういうの? と。

メシヤ様が自分で書かれて、自分の御神格は?というようなことを聞かれてるような・・ですね。


図ー2
1-6-2

三救責任者
それで、回答も自分で書かれてるということで(「結論」世界救世(メシヤ)教奇蹟集の方で)、
『私をもって救世主または再臨のキリスト、下生の弥勒としてもあえて不思議はないと思うが、それはその人の自由に委(まか)せるとしても、最後に至れば万人にわかるはずである。』
この辺はね、ちょっとオブラートに包むみたいな感じだけども、私はメシヤなんです。救世主なんです。再臨のキリストなんです。下生の弥勒なんです。・・ですよと、そういう御神格なんですよ、という事を仰ってるわけですね。で、最後の審判の時に、最後に至ればみんな分かるはずだと、という事をここで言われてます。
だから、メシヤ様の御神格というのは救世主であり、再臨のキリストであり、下生の弥勒ですよと。
ここから下(図―2の下部)は僕が書きましたけども、
弥勒下生というのは東洋で言われてましたねと。仏滅になって弥勒下生になると。
メシヤ降誕というのは西洋で言われてましたね。
結局、両方の働きというのはメシヤ様のことだと万人に知らせるのが目的なんですよと。この奇蹟集の目的ね。


図ー3

1-6-3

三救責任者
そうすると、世界救世(メシヤ)教教義、ここには出てきませんけども、世界救世(メシヤ)教教義ということを、御神名云々の事もあるので、いつも考えているのが世界救世(メシヤ)教教義。今日も参拝の後に拝読しましたけども、もう一度読みますと、

世界救世(メシヤ)教教義

抑々(そもそも)( )世界の創造主たる主之大御神(ヱホバ)は( )(この)地上に天国を樹立すべく( )(たい)(しょ)より経綸を行はせ(たま)いつつある事を(われ)()は信ずるのである( )(これ)に対して人間を神の代行者とされ(たま)うと共に( )一切(いっさい)万有(ばんゆう)は人間の為に造られたものである( )(ゆえ)に今日(まで)の人類史は(その)為の準備工作に外ならない事を信ずるのである( )従而(したがって)( )神は(その)時代々々に必要なる人間と( )必要なる宗教を(あら)はし(たま)( )それぞれの使命を遂行(すいこう)させ(たま)うのである( )

今や( )世界の状勢は混沌(こんとん)として帰趨(きすう)を知らず( )(この)時に際し( )主神は(われ)()の岡田茂吉教祖に救世(メシヤ)の大任を下し(たま)( )人類救済の(せいぎょう)を達成せしめ(たま)を信ずると共に( )人類の三大災厄たる病貧争を根絶し( )真善美の完き恒久平和の理想世界実現を目標として精進(しょうじん)邁進(まいしん)せん事を期するものである( )  


「抑々、世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、こ此地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。」

ということと

「主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い、人類救済の聖業を達成せしめ給うを信ずると共に」

ということで、全ての根源というのは世界の創造主の主神様ですよということですね。「太初より経綸」ですからね。経綸全部、主神様の経綸ですよということです。

 


図ー4
1-6-4

三救責任者
世界救世(メシヤ)教教義を本にされる時に先生は、こういう事でより丁寧にされたわけですからね。そういう丁寧にしたいという意志の表れですよね、これは当然。

だから、改ざんじゃないですからね。そこを勘違いする人が居るので改めて学び直しをしております。

 

「主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い」というのが原文です。

ここも、改ざんという人が居りますけども、こういう書籍(『入門と奥座敷』)を校正していくときに、先生と話してきたことを思い返していくとですね、「岡田茂吉教祖に救世(メシヤ)の大任を」となっている箇所ですが。

ここで、教主というとメシヤ様に特定できないですね。〇代教主様に救世(メシヤ)の大任をってなってしまいます。しかし、教祖って書くとメシヤ様御一人じゃないですか。だから、教祖にしたんだと思うんですよ。そんなような話をされてたような・・気がしてきました。()

それで、「救世(メシヤ)の大任を」のところね、これね、前に、『入門と奥座敷』の前に『祈りの栞に寄せて』というのがありました。『祈りの栞に寄せて』の発刊された後で、メシヤ講座の時に教義比較ということで、 日本観音教団の教義 と 五六七教の教義 と 世界救世(メシヤ)教になった時の教義 と もう一つ、『祈りの栞に寄せて』を先生が書かれた時の教義を比較。

この『祈りの栞に寄せて』の時には救世主と書いてるんですね。救世主(メシヤ)。ここを意識させたかったんですね。救世主(メシヤ)っていうのを。

今の個所の(『主神様とメシヤ様』)では、(救世)でメシヤ、だから、この救世主というメシヤ様の御存在を意識させたくてそれをしばらく続けてきて、で、最後の時に救世でメシヤと読ませたんだと思うのです。

それで、「救世(きゅうせい)の大任を」って言うとね、「救世の大任を」の後の文章が「人類救済の聖業」ってなるじゃないですか。

「人類救済の聖業」って「救世(きゅうせい)」の事じゃないですか?人類救済の聖業。
以前ここは「聖旨(せいし)」と誤って書かれていたのを
聖業」に戻したという事がありました。

だから、「救世(きゅうせい)の大任を」とすると、あの短い教義の中で重複してしまうのです。

メシヤの仕事をするとか、自分が再臨のキリストだとか、そういったことをここでは言われているのですが、教義の時というのはまだね。25年ではあるけども。

だから、いずれこうなるってことだったと思うんですよ、僕は。

そういう意味も含めて、先生は「岡田茂吉教祖に救世(メシヤ)の大任を」と、これ(救世)をメシヤと読ます。大任ですからね、任せるという事ですから。誰に?って。

元は、主神様はメシヤ様に、という事をやっぱり言いたかったんじゃないかなと。

そういう意味で、教義を勉強しなさい!教義を勉強しなさい!と言っておられたんじゃないかなと思ったんですよ。

今は、最初岡田自観師と言っていたのをメシヤ様ですよと。だから、当初、救世主と書いて、救世主(メシヤ)ってやってきて、それが認識できたとして、救世(きゅうせい)と書いてメシヤとしたと、これは先生の思いを拝察しましたという事です。

ちょっとややこしかったですね。

新説です。()

 

参加者

()


図ー5
1-6-5

三救責任者
次に、メシヤ講座三重からですけども、「世界救世(メシヤ)教教義」が御経綸ということで、150億年前に宇宙が出来ました。45億年前に地球は出来ました。38億年前に生命が出来ました。ずーっと進化をたどって現代に至っています。
この150億年の流れ、この動きが御経綸なんですよと。
『独一真神即ち万能の神とも申し、大宇宙の主神で被在らるゝのである。此主神に対しては、之を表現し奉る言辞もなく、文字もなく、唯だ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すより外はないのである。』これは『宗教と科学』からです。
宗教と科学と一致の話、今出てましたけども。こう書かれていて、これをとらえて、主神様の御神体であるにもかかわらず、「主之大御神様」と呼ぶのは云々という話をされていますけども、それは初めから先生が御神体、メシヤ教を発足にあたってこの御神体、同時に進んで来られたということは・・そこにもこの話は書かれてますからね、知らないはずはないんであって、ここを意識させられてるんですね。○○○教団の先生方からも、「主之大御神」と御呼びするのはどうかなぁとか、一家庭に・・とか、そんなような批判を受けながらも「主神様」、「主之大御神様」と呼ばせていただく、この御神体を。ということで来てるわけです。


図ー6
1-6-6

三救責任者
このような御存在であられるからこそ参拝に臨む想念つくり、想念の高まりを求め続けてきたのですね。
で、「メシヤ講座」、「覚りの旅」で学んで、参拝を先達一人で奏上し参拝者が承るという姿勢、これはこの御神体であって「主之大御神様」と御呼び申し上げる、御神名を唱えさせていただくということと、参拝の形式をきちんと想念高めてきたということと繋がっているんですよという事ですね。
だから、「メシヤ講座と共にある」ということかなと思います。
主神様から人類救済の大任をお任せ頂いたメシヤ様の御存在を認識し、メシヤ様と申し上げることで、地上天国建設につながる『浄霊』の恩惠(奇蹟)に与ることが出来るんですよと。
奇蹟集に掲載されるような奇蹟を賜ることが出来ると、そのことを、学ばせて頂けたことに感謝させていただきたいと思います。


図ー7
1-6-7

今回のテーマに関係するような御歌を選んでみました。

キリストや釈迦マホメットの待ち侘びしメシヤの神は天降りましける
 メシヤ降誕の事を言っておられるんですね。

再臨のキリストとなり輝いて世に伊都能売の珍(うづ)の大神
 珍(うづ)というのは、辞書を引くと、「珍しいこと。尊いこと。」とあります。
ですからここでは、再臨のキリスト、メシヤ降誕ともつながるわけですね。
ここは、伊都能売(いづのめ)尊いお働きは、世に再臨のキリストと言われるメシヤ様のことだと。
伊都能売(いづのめ)というのは「尊いお働き」なんだとも解釈できると思います。

〇大いなるメシヤの御手に地の上の一切万有救わるるらん
 だから、メシヤ様の御手に帰一されていくということですね。

〇キリストの父なる神は主の神と知れよ信徒吾と併せて
「吾と併せて」が大事だと思うのです。キリストが天の父と言ってるのは主神様のことですよと。信者さん、知っててね。メシヤ様と併せて。これはね、イコールってことを知らせたいのだと思うんですよ。主神様の任を受けて、現界で主神様のお働きをされているのはメシヤ様ですよ、私なんですよということをここでは言われてる思うんですよ。
御歌というのは、言いにくいことを言える。このわずかの31文字(みそひともじ)でね。

〇神仏耶始め諸々教あれどメシヤの出づる迄のものなる
 神道も仏教もキリスト教も諸々教えがあるけども、メシヤ様の出づる今までのことでしたよという。全部含まれていくんですよということですね。

〇一切衆生救ふ力を有ち給ふ神はメシヤの外なかりけり
 他にないんですよと。だから、メシヤ様ですよという。メシヤ降誕ですのでね。

〇長き世を待たれしメシヤもキリストもミロクも今し天降るなり
 やっとミロクがでてきましたけども、全部メシヤ降誕。タイトルがメシヤ降誕本祝典ですから。大ミロク降誕本祝典ではありません。大ミロク下生本祝典ではありません。



図ー8
1-6-8

三救責任者
大分気にしてるので書いてるんですけど・・。御神名を変えられていくので。
メシヤ降誕仮祝典でした。
これ、ちょっと僕の考えが入ってますけども。
昭和29年、メシヤ様の時に 「スメ」大御神だったらしいと。
仮祝典やったじゃないですか?仮祝典の仮だよね。
平成29年に「スメラ」でやりました。仮祝典をやり直さなくてはいけないと言ってやりました。「スメラ」でやりました。これ、先生が「スメラ」と言われてたからね。
じゃ、仮の本かなと。
ややこしいけどね。
仮をやり直す必要があったのかどうかよく分からないですけど・・。先生は本祝典をやると言っておられただけで、仮祝典をやり直しとは仰ってませんでした。だけど、こうなったから、こう考えたんですね。
その後、翌年に「スメ」でやってるので、そこはよく分かりません。
仮の仮・・仮の本・・これは何?って思いますけども。
ここの時は天照皇大御神。
メシヤ降誕本祝典、30年3月3日にやりました。
この時の御神名が大ミロク大御神、メシヤ大御神でした。
だから、ミロク下生とメシヤ降誕、両方あるんだよということかなと思うんですけど。
ここの御神名(大ミロク大御神)でやれというのも先生は言われていませんでした。
これ(メシヤ大御神)でやれとも言われてなかった。
メシヤ降誕本祝典をということは言われてました・・ということだけね。
両方を司るのは主神様です。今までの話の中でね。
メシヤの神様を限界にお出まし頂くその経綸の主体のお役を任ったのが・・全体を御教えで考えるとね、経綸の主体が大ミロク様ということが一つと、観音様即ち大弥勒様という二つの御教えしか大弥勒様については探すことが出てきませんでした。
それで考えた場合に、メシヤの神様を現界にお出まし頂くその経綸の主体、その時、ミロクだから五六七、五十六億七千万年後という時を表しますよね、その時の主体のお役を任なったのが大ミロク様。だから、ずーっとずーっと経綸されてきたのは主神様ですよということです。メシヤ降誕、ミロク下生、その時の経綸の主体のお役というのが大ミロク様。御教えで解釈するとね。
それで、観音様即ち大弥勒様という御教えがありますけども、それは昭和10年の御教えで、この御教えのタイトルが「仏説の開扉」です。仏説を開扉する。観音教団の発会にあたって、私達は観音教団でやっていくんですよと、だけど、弥勒とか色々出てきますので、これからも出てくるので、本当の真理としての仏説を開扉しますということで。大ミロクとでてくるけども、それは観音様のことですよと。要は観音様主体です。主神様が善言讃詞で「世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ・・」主神様が遣わしてくださる、まずは観音様ですから。観音様が出世されていくんですよと。関わりありますけども、どんどん出世の中にね。最後にどう書かれていますかって、「救世主(メシヤ)とならせ」と書かれてますから。なるんですから。だから、應身彌勒というのはまだ仏界かもしれないけど、大ミロクってつけたのは仏界がなくなって仏滅の時の働きでもあるので、こういう御神名になったのかも知れませんけども、そこはちょっと拝察するしかないんですけども。
だから、善言讃詞は「救世主(メシヤ)とならせ」となってます。だから、太初より経綸を行わせるのは、世界救世(メシヤ)教教義にあるように主神様ですよという事を。

大分自分の考えも入ってますけども。

参加者
質問があるんですけど。
さっきの御歌の中で、「・・伊都能売のうづ・・」?

三救責任者
珍(うづ)の?

参加者
はい。
あれ、「うづ」って読むんですね?

三救責任者
「うづ」です。

参加者
どういう意味を表しているんですか?
普通に読んだら「ちん」だと思うんですけど。

三救責任者
珍(うづ)というのは、辞書を引くと、「珍しいこと。尊いこと。」とあります。

参加者
そういうことなんですね。
「伊都能売の珍(うづ)の大神・・」だから、伊都能売の中の働きがあるじゃないですか?
「珍(ちん)」。確か、・・なんとか珍獣帳とか、何か、あるんですよ。この「珍(ちん)」なんですね。ちんって確か呼んでたんだと思う。私も「ちん」だと思ってたんですよ。だから、「ちん」って読むんだと思っていて・・。で、「うづ」!

三救責任者
「珍(うづ)の大神」って他にも出てきます。

参加者
へぇー、初めて。

三救責任者
だけど、ここで言う「伊都能売」ってね、伊都能売自体は古事記なんかでは「伊都能売」ってして神様の御神名はついていませんから、働き自体が大切なんですよね、きっと。

参加者
うーん、なるほど。じゃ、それは働きという意味でとった方がいいんですかね?

三救責任者
働きだね。これで読むとね。

参加者
珍(うづ)という言葉が非常に気になったので。

三救責任者
「めずらしい」って読むからね。「珍しく尊い」そういう両方の働きを持つ神。とも言えます。
伊都能売っていうのは、その厳しい働きもあるし、観音様の働きもあるしっていう、そういう神様ですよと。そういう神様も再臨のキリストとなって現れるんですよと。
だから、メシヤ様は伊都能売神でもあったので、メシヤ様が現れるんですよと詠んだ歌でしょうね。

参加者
うん。

三救責任者
で、ちょっと字で、これを読んでいて、ルビが・・。
(ボードに「障礙」と書きながら)これ(障礙)は何て読みますか?
僕は普通に「しょうがい」って読んだんですね。普通の読み方。
奇蹟集の本書には(図―B)、「しょうげ」って書いてあるの。「しょうげ」って読むんだね。
まぁ、一緒の意味だと思いますけども。

参加者
うんうん。
この間もその話をしてたんですけども、楳木先生は文字を変えなかったじゃないですか?
いわゆる昔の文字のまま。そこにこそ働きがあるからって言う話で、実際、本当にどんどん形が崩れることによって、その文字の本当の意味合いとか働きが薄れていくっていうのはありますよね?

三救責任者
あるある。
それで、もう一つここで・・。
そういう話になるからかなぁ。
(ボードに「欲求」と書きながら)欲(よく)、これ欲求(よっきゅう)。
ここではこれ()を使いました。(ボードの欲の下に心を書いて)ここではこれ()、慾には心、慾を求めるのは心なんだって、ものすごく字が表してるよね。

参加者
そうですよねぇ。

三救責任者
これを見てて思ったんです。
あぁそうしたら本当に今度何か・・作るにはきちんとこれを使わないと。そこまで求めていくには。と。

参加者
余談ですけど、中国のいま、繁体文字と簡体文字っていうのがあるじゃないですか?

三救責任者
簡単にし過ぎてるもんね。

参加者
ねぇ。そう。もう、記号化されてることによって、言語が壊れちゃって。あれはきっとそういう政策なんだと思うんですけどね。
ハングルもそうだと思うんですよ。

三救責任者
ハングルなんかはもう本当に意味を持ってないじゃないですか。記号で。

参加者
そうやって壊していく。

参加者
今、少しずつ「文明の創造」も英訳を始めていこうと思って最初からやってるんですけど、やっぱりその文字による意味合いの深さによって訳が変わってくるんですよね。・・と思うんですよねぇ。
あんまり難しすぎても駄目なんですけど、それはまた易しくしていくんですけどね。どうなんだろうと思って。

三救責任者
んー・・・単に字だけに・・・

参加者
そこにこだわり過ぎても良くないと思うんですよねぇ。

三救責任者
そうそう。
あのぉ、今、祝詞をどうやって奏上してるか分かりませんけども。

「高天原に神留(かむづま)り坐す・・」の「神留(かみづま)り坐す・・」でもそうですけど。
「給ふ」はどうやって読んでる?

参加者
今、どうやってるんでしょうね。

三救責任者
「てふてふ」って何て読みます?
尋常小学校の教科書で一番最初に習うのが、こう書いて「ちょうちょう」って読みます。

参加者
それは結構遊びましたよね。「てふてふ」って書いて「ちょうちょう」って。

三救責任者
昔の教科書を出してくると、そうやって習うわけですね。だから、書く文字と話し言葉というのはずれがあるよという認識がないと・・・えっと、何が言いたいかというと・・。
(ボードに「給ふ」と書きながら)これ、事を「給ふ(たまう)」、給ふ(たまふ)って書いて「う」じゃないですか?
何でこんなことを言うかというと、若い子が「意味が分からない!」と言っていたので。
意味が分からないんですよ。だから、そのまま「給ふ(たまふ)」って書いて「給ふ(たまう)」なんですけど、「意味が分からないんですけど」って。
何を言ってるのかなぁって思ってたんですけど、考えたら多分こういうことだと思うんですよ。
だから、書き言葉と話し言葉の違いなんですね。

参加者
そうですねぇ

三救責任者
平安時代とかも色々変わってきたみたいで

参加者
平安時代のはテレビで見た時すごく言ってる声が全然分からない、読み取れなくて。

三救責任者
どこまで遡るのかということだと思うんだけど。

参加者
本当ですねぇ。

三救責任者
作られたのが昭和であるならば、少なくとも昭和のそこまで位でいくし、もっともっと遡っていく必要はないじゃないですか?

参加者
そうですね。それはないですね。

三救責任者
そこの考え方がしっかりしてないと、字面だけ見て、祝詞奏上するのというのもどうかなぁと。全然、これ意味が分かってるの?というのがありますよということで。

参加者
うんうん。本当ですね。
大事なのは音ですもんね。

三救責任者
そうそう。音なんですよ。
で、まぁ、反面教師的なところでいくと、「御讃歌集」。あるところで、「御讃歌集」の、メシヤ様の御歌を、訂正しているのです。
国文学者に全部チェックしてもらって、こうしましたよって一杯貼ってあるんですよ。それもどうかと思うんですけど。御歌ですから、わずか三十一文字の中にメシヤ様がこういう風に書かれたのを、今の文法的に違うからって・・。
メシヤ様、御文字を書くにあたっても習ったわけじゃなくて、あなたは習わなくても・・

参加者
習わなくてもって言われた方ですもんね。

三救責任者
御文字から光が出るくらいですから。
御歌なんかは特にそうでしょうから、今までの慣例にとらわれることなく作られていたというのもあるので、意味が伝わることが大事なのではないかと思いました。

参加者
本当ですね。落としちゃってますね。

参加者
思い出した。中宮寺にある、何か刺繍があるじゃないですか。
あれがなんとか珍獣帳とかいう名前だったと思います。
それが亀さんと・・

三救責任者
それは珍しいという意味の「珍」。「珍獣」って言うじゃないですか。

参加者
でも、それも元々の本来の意味というのは何かあるのかなと思って。

三救責任者
珍(うづ)?

参加者
うん。何故かって言うと、刺繍の展示会を見に行った時に、糸にまた糸を巻いて刺繍してるんですよ。だから、もしかしてその「うづ」っていう意味がそこにあるかも・・。

参加者一同
あ~ぁ。

参加者
そういうことがね、一杯あるんですよね。そうそう、だから「珍」っていう字を使ってるのはそれかも知れないなぁと思って。
理由があってその何かなぁと思って。

三救責任者
そういう意味があるのかも知れないね。
語源をたどると面白いかもね。

参加者
「うづ」って読まれたので・・あぁと思って。

三救責任者
そうそう語源・・語源。

三救責任者
もうすぐ六月ですけども・・。

参加者
もうすぐって、今日ですよね。

参加者一同
(笑)

三救責任者
今日からだ。
ちょうどいい話だね。
(ボードに「水無月」と書きながら)「水無月(みなづき)」って言うじゃないですか。
水、あるのにって思いません?

参加者
ホントにですねぇ。

三救責任者
その語源がね、(記事を読みながら)『六月の呼び方としては水無月(みなづき)というのを御存じの方は多いでしょう。雨の多いこの時期が水が無いとは妙だな』と思いましたと。
「水」は「み」だよね。「無」は文法的に言ったら連体助詞っていうの。水(み)と月(つき)をくっつけるためのもの。

参加者
あぁ、そうなんだぁ。

三救責任者
そうなの。例えば「水底」を何て読むのと言ったら、「みなそこ」じゃないですか。「水」と「底」で「みなそこ」って言うじゃないですか。くっつける時にそういう風になるじゃないですか。

参加者一同
あ~ぁ、そうなんだぁ。

三救責任者
(「港」とボードに書きながら)これは「みなと」ですよね。本来は「水(みず)」の「門(もん)」。これ、「水(み)」と「門(と)」って読むんですよ。そうすると、「水の門」ということで、「みなと」となって、この字を当てたんでしょうね。
「水(みず)の月(つき)」というのが主流なんだよと。これは水の月のことであって、これは当て字ですよと。だから、本来書くのであれば「な」と書けば分かったんだけども、「無(な)し」じゃないよということね。
『 無は、「無い」では、ない 』 って書いてある。今日の新聞から。
「水無月(みなづき)」の「無」の字は「無い」という意味ではなく、別の成り立ちの・・これはだから、例えば「無い」という字を使うんであれば・・・
(ボードに「水無瀬川」と書く)

参加者
「みなせ」ね。はい。

三救責任者
表面に水が無い川を「水無瀬川」。(瀬とは、 川などの流れが浅く歩いて渡れる所。浅瀬。)
『そういった表記に影響された一種の当て字と考えてよい』でしょうという風に蜂矢さんが分析されてます。
この「無」って当てたのがね。

参加者
ふ~ん。

ここから当てたんでしょうけども、「水無月」だけ見ると意味合い的に「水が無い月」に見えてしまう。本来は連体助詞でしたよ、ということで指摘しています。

たまたまここにつながったなぁと。(笑)

参加者
つながるようになってるんですねぇ。(笑)

参加者
たまたまではないんです。(笑)

三救責任者
これから色んな先生が作ろうとされていた本がどういうものかという事も考えながら、ただ、今にマッチしたものを、始めは資料としてでも作っていこうかなぁと思っていますので、ご協力宜しくお願い致します。

三救責任者
三救では、ホームページ上、ブログ上での発信等あわせて、お役に立てるようなものを作っていけたらいいなと思います。
メシヤ講座の発信というのがどこもやっていないので・・。やれないっていうのが、御神名の変更によって崩されてる感があるので、しっかりと自分達はこれを、学ぶのが「主神様とメシヤ様」であって、ここを中心にしてやっていけば信仰がぶれることはないかなと思ってます。
本当にそう思う。
だって、御神名かわるんですよ。大弥勒ってみんな唱えだしたので・・いずれ天照になるとか・・。
観音講座では天照大御神様は世界を統一なさるというのは書いてあるんですけど、それはいつ書かれたのって言うと、さっきの話の昭和の初期に書かれたのであって、そこの部分というのは天皇の皇祖神である天照大御神様を何としても崇敬しないといけない時代であったので、国賊になるので。そういったところがあって書き方としてそうせざるを得なかったということがあるんですよ。だけど、ある意味、天照大御神様が光の玉として入っておられてというのも御教えにあるのでそこもそうだと思うし、実際に天照大御神様の御神名で昭和29年6月15日にメシヤ様を御呼び申し上げたというのもそれは事実としてあるので、だけどずっとそうしていくようにと言われてないので、ずっとそうしていくようにということであったら仮祝典の後の本祝典は天照大御神御降臨本祝典ではないのですか?違いましたよね。また、大彌勒下生本祝典でもありませんでした。そこを考えないといけないと思うね。
ゝ(チョン)が入ってメシヤ様になられたということが大事であって、メシヤ様になられたので、〇にゝが入ったということを祝う本祝典としてのメシヤ降誕本祝典だったんだろうと思います。
だから、イコール、主神様が現界に・・主神様としては体を持って現れないのでメシヤ様として現れたということ。
御教えで解釈して、ゝ(チョン)、御霊、ある高貴な神御霊が宿ってということでとらえておけば他にも話は出来るんじゃないかな。と思います。

では、終わらせて頂きます。

一同
ありがとうございました。