五月には、この地球上に初めて主之大御神様の御神体が現れて二十年を迎えようとしています。
十周年の時の挨拶の内容は宗教の原点を問い正すものがあります。
地道に「メシヤ講座」を全国で開催し、インターネットで発信を続けておられたからこそ多くの人が繋がることが出来たのですね。


メシヤ講座・特選集no.100(平成21年5月分)

「御神体御奉斎十周年記念祭」特集


≪挨拶≫
御神業の方向と幸福への道

メシヤ教代表 楳木和麿

御神体御奉斎十周年を迎え感慨一入

皆さん、おめでとうございます。また、遠路にも拘(かかわ)りませず、このように大勢の方々がご参拝くださいまして心より感謝を申し上げます。

本日ただ今、この御神床に御神体を御奉斎させていただいて丸十年になります。早いような、ずいぶん時間がかかったような感慨がありますが、このように大勢の方々と記念祭をさせていただけることを重ねて感謝申し上げたいと思います。と言いますのは、十年前に御神体を御奉斎させていただいた時に、私の家族と信者さんはまだ1軒しかなかった訳です。ですから十人に満たない方々と御神体御奉斎式をさせていただきました。

また、ブログ「日月地」で今回「御神体御奉斎記念祭」についての質問に答えてあります通り、最初はメシヤ教という独自の活動をするということよりも世界救世(きゅうせい)教の教団改革を一旦外部から事の真相を書籍に著わす形で進めるという予定でありました。

しかし、諸事情により急遽メシヤ様から『教団改革は、批判するだけでは本当の改革にはならない』と、また『ゼロから御神業に取り組むように』という御神示をいただいて、それでは“信仰の中心になる御神体をどのようにさせていただいたら良いのか”ということを僅かな期間で決めることになりました。

以前の教団で御神体について異論を唱えてはおりましても、いざ自分で御教えに沿って準備するということは大変な決意が必要でありました。そして、メシヤ様のお文字の決定、御神体の謹製方法の在り方選択、というように矢継ぎ早に進めねばなりませんでした。しかし、お蔭様でその当時の方々の尽力によって短期間で準備が整い、表具師と綿密な打ち合わせをして表装の作業に入った訳です。

4月の末に表装が仕上がりましたので、“何時、御奉斎をさせていただこうか”と考えていたところ5月5日に決まりまして、この場で「御神体御奉斎式」を執り行わせていただいたのです。いざ御奉斎させていただくと、大変に意義深い日取りとなった訳です。(参照:「メシヤ講座・浜松」5月分)

そして、その後“何故この大分県の玖珠という所で「主之大御神」様の最初の御神体を御奉斎しなければいけないのだろうか”、“どうしてこのようになったのだろうか”ということを考えつつ御教えの検索、それから「○」に「・」というお文字の研究に没頭をしましたところ、以前「メシヤ講座」でお話した通りのことが明らかになったのです。

このお文字は今から約三千年前に使われていたホツマ文字の中では「あ」という文字であります。「日本人に神様が『あ』という言霊(ことたま)を教える際に、『あ』という言葉が出る前に霊界の方でまず『クスツフムヌル』という無声の声が響いて、それが飽和状態になった時に「あ」という言葉が成り出でたとのことです。それでこのお文字というのは「クスツフムヌル」ということをしっかりと認識しなければいけない、という想いに至った訳であります。

【参照文献】

【悠久なる大宇宙の歴史の間に於ける一時(ひととき)、この葦芽気(あしかび)の姿を具へた大宇宙が、自己みづから、此のクスツフムヌルの『リズム』の飽和に耐えかねて、自ら鳴り出しました。

之が『宇宙剖判』の始まりで、その宇宙初の声は即ち『ア』という母音であります。】(「日本超古代秘史研究原典」吾郷清彦著・新人物往来社)より抜粋)

こうした取り組みや作業を進めつつ、家庭用の御神体の準備が整いましたので、当時少数ではありますが支えてくださった関東、東海で御神体御奉斎が許されました。そして、そのお宅で毎月「月次祭」をさせていただくようになりました。

また、Yさんが発表してくださったように実家のお父さんから「これからはインターネットの時代だからメシヤ教の情報を発信していったらどうか」との申し出をいただきました。その頃の私はパソコンを一切触れなかったので、一から学習しながらという状態で、種々教えていただきながらスタートいたしました。

それから、「善言讃詞」は前の所属教団でもメシヤ様が最後に御手をお入れになったところまで戻すという作業をしたのですが、どういう訳か『仁愛の御手に帰一され』というところだけが抜けてしまっていたのです。それでは三派の統一とか万教帰一という言霊(ことたま)が響いてゆかないので、これを入れて、そして一部読み方の違うところがあるので、これも改正して「祈りの栞」の作成をさせていただきました。

また、「祈りの栞」を作成したので、メシヤ教の基本理念をまとめた「祈りの栞に寄せて」という本を上梓するという作業を進めて、それがその年の6月15日に仕上がりました。

メシヤ様のお導きがあったればこそ

同時に、「御守り(おひかり)なしでの御浄霊」をどのようにして皆様方に伝授してゆくかということでは、貴重な出会いがありました。御神体の準備を終えてから大阪府茨木市にある「〇〇和協会」という教団を訪ねました。これは現・新〇〇協会から枝分かれした教団ですが、ある宗教辞典では「五六七大御神」様が主宰神というように紹介されていましたので、そこに至る経緯などを確認する意図で本部に立ち寄った訳です。

そうしましたら、本部なのに誰もいらっしゃらないような状態でした。そこで裏へまわってみましたらご婦人が出てこられましたので、私が来訪の趣旨を説明いたしますと、「御神体については誤報」だったのですが、そのご婦人は初代会長の奥様でありました。そして、「急遽留守番をする人がいなくなったので、今晩私が当直をすることになったのですよ。予定外に私が当直することになったのは、あなたと出会って何がしかの話を明主様(メシヤ様)が『伝えよ』という理由があってのことでしょう」と、快く応対してくださいました。

まず、現・新〇〇協会が創立された謂れ、次に〇〇和協会が独立するに至った経緯、更に「御守りなし」で浄霊を普及してきた経過を細々と話してくださいました。その一部が「祈りの栞に寄せて」という本に引用している内容だったのです。

ですからずーっと辿って思い起こしてゆくと、メシヤ様のお導きによってこの御神体の御奉斎を迎え、また「御守りなしの浄霊」という取り組みが許されてきたことが、思い知らされます。

そして実質的にメシヤ教を発足させたのは翌年ですので、来年の2月4日に創立十周年になります。その発足の2月4日に「メシヤ講座」の第一号として、宗教宗派人種を超えて浄霊力を伝授するための「浄霊」という本を作り上げた訳です。(不思議な期日が重なったので、「このような慶事が、ミレニアム(千年紀)を迎えた今、訪れようとは、願ってはいても“有り得ることか”と我が耳目を疑う思いです。」と記述しました。)

それを皮切りに「メシヤ講座」を始めまして、パソコンも慣れたところで皆さんと種々勉強し合っている内容をホームページの中で紹介してゆこうということで、「メシヤ講座・特選集」の掲載を始めた訳であります。

こうして皆様方と出会って今日の十周年を迎えることができたのも、ほとんどの方がこのホームページを通してでありますので、大変な役割を担ってきたという訳です。これからも、よりホームページの充実を目指したいと思います。(お蔭様で、支部のホームページやブログが相次いで開設されネットワークが広がりを見ています。)

情報精査の仕方が明暗を分ける

そういった十年前を彷彿とさせてくれるYさんの発表は、涙を誘われてしまう感動的な報告でありました。

Yさんの報告を聞いていますと、御本人にとって一番大きいのは何かと言いますと、情報の精査と時流に乗ることの大切さです。二千年以上前に御釈迦様が「人類の不幸は無知である」という言葉を残していらっしゃいますが、それはまさに仏滅を迎えた現代に最も相応しい言葉であると感じております。

お産の際に書籍を参考にして助産院で出産を行ったら、後々に更に素晴らしい様々な情報を手に入れることができ、視野が広がりました。それから日本の社会で、育児制度が大きく改正されて女性にとって働きやすい環境作りがなされていますが、自らその恩恵に与(あずか)りました。

それらをどのように捉えるかというと、世の中というのは愈々「最後の審判」の形というものが出てきているために、テレビや新聞紙上の報道では目を覆いたくなるようなものばかりですが、同時に人間の叡智というのが結集されて制度面で非常に良くなっていっている部分もあります。ここには理想世界に向かって着々と築かれている人類の叡智というものがあります。

私達が生活してゆく上においては、この叡智の部分で築いてきたことを如何に自分が「知って活用してゆくか」ということが大事なのです。そういうことをYさんの体験発表から改めて感じさせていただきました。これからも「メシヤ講座」を通して人類が叡智を以って築いている良い面の情報を共有することが課題です。

また一方、Tさんの報告では、Tさんという方はホームページを通して初めて御神体を申し込んだ方です。私を最初から支えてくださった方々の御神体御奉斎が終了した後に、全く私という人物を知らないでホームページだけで情報を得て「メシヤ講座を読んで、非常に解り易いので連絡しました。」というメールから、すぐ御神体御奉斎の申し込みをされた方です。その時の様子は卵巣膿腫という非常に重い病気を抱えておられ、医者からは「妊娠はあきらめるように」と言われていた中で、御神体を申し込むために奉納金を納めた月に懐妊を許された訳です。

そして、報告では「人格向上」ということを柱にして報告してくださいました。Tさんは神慈秀明会から別の独立教団を経て、そしてメシヤ教に繋がってこられました。それとホームページを見て繋がってこられたということは、メシヤ様を教祖に仰ぐ教団に関する情報を数多く持っておられる訳です。

それ故に、御神体御奉斎を通して大変な御守護をいただいたのですが、心の面がしっかりと定まるためには、氾濫する情報を自分なりに精査しながら自分の中に信念体系を築いてゆくということが課題としてあった訳です。

それから同時に、赤裸々にTさんが語ってくださったように、自分が幼少のころからずーと育った過程で身に付いたものと身に付いていないものがあって、御教えから得る理想像と現実の自分とのギャップに随分と悩んでおられました。

自らによって『最後の審判』を選択する

それで私が一貫してずーっと話したことは、「祈りの栞に寄せて」という本の中の「教祖とは」というところを主軸にした内容です。面談の度に、その話を重ねてまいりました。「教祖とは」というところを読み返していただくと解ると思うのですが、教祖になる人は教祖になるまでに大変な苦労をされているのです。この苦労をする中で何を身に付けるかというと、「人を救う言葉」を身に付けるのです。

「どのような人にも救いの言葉をかけて上げる」という、その言葉を身に付けるために苦労します。そして、もう一方ではご啓示が降りた瞬間に、人を救う力が授けられます。この力と言葉によって教祖というのは様々な人を救ってゆきます。

そこで重要なことは、教祖という方が苦労の中で「人を救う言葉を身に付ける」とは何かというと、「感謝を絶対に忘れない」ということなのです。自分が病気になった時に励ましてくださったり、慰めてくださったりした、その時の相手の言葉を全く忘れない人しか教祖になれない訳です。

“喉元過ぎれば熱さ忘れる”というような人は教祖にはなれないのです。そういう意味では、教祖に続く布教師もそういう人でないと本物の布教師にはなれない訳です。

ですからTさんにも「自分がいただいた御守護というものを絶対に忘れない」という心をまずしっかりと持っていただきたい、と強く取り次いだのです。御神体を申し込んだ時に医師が「不可能だ」と言った子宝を許された、「このことを絶対に忘れないで、感謝が膨らんでいけば、人生というのは後々非常に豊かなものになるんですよ」ということを私は繰り返しお話しさせていただきました。

最後にそれをまとめて報告くださいましたが、「メシヤ講座・特選集」に掲載いたしますので、どうか皆様方お一人お一人の人生と照らし合わせて考えていただければ有り難く思います。

そういう意味で大変学びのある体験談だったと思います。Yさんに続いて涙無しには聞けない体験談だったと思います。

そこで、このお二人の体験を通しまして、その学びを今後どのように活かしてゆくかと言いますと、お二人には共通するものがあります。

先程もお話しましたように「情報」というものが非常に氾濫しております。「最後の審判」の時には何か「大地震」が起きたり、「大洪水」が起きたりそういうことを私達は想像するのですが、実は、正しい情報と間違った情報が大洪水のように押し寄せてくるということが「最後の審判」の一番大きなところであります。その情報を如何に自分が取捨選択してゆくかということが大事なのです。

だから四月に「インフルエンザ・ワクチンは打たないで!」(母里啓子著・双葉社)という本を紹介しました。疫学について長く貢献してきた方の著書ですが、内容を見ると、今世の中で「新型インフルエンザ」と言って騒いでいることが物凄く陳腐に見えます。

ある解説者は「インフルエンザで騒いでいるのであれば、日本で結核患者は毎年十万人単位で発症している。そしてお亡くなりになる人達がいる。こっちはどうなっているんだ。このことに触れないで今わずかな発症者が出ているインフルエンザで騒いでいるのはどういうことだ」、「自殺者は近年増えているが、インフルエンザの対応策よりもこちらの方が重要ではないか」と、指摘しています。

全くその通りで、例えばインフルエンザ脳症という病気がありますが、この病気にかかった人の脳を解剖してみるとインフルエンザ・ウイルスは脳の中に入っていなかったのです。しかし、インフルエンザ脳症という病名を付けたために“インフルエンザになると脳症になる”と錯覚してしまうのです。

こうした矛盾を承知しておかないと、私達はテレビから流れてくる情報で大変な不安感に襲われてしまいます。ですから、こういう研究者や長年疫学に取り組んできた人達の正確な情報というものを取り寄せて、「最後の審判」に差し掛かった現代を、正しく有意義に生きてゆくということを私達は得ていかなければなりません。

そうした意味において、重複しますがより一層「メシヤ講座」を充実させていただきたいと思います。充実させるためには、皆様方も自分の身の回りでより良い情報というものを手にして会場に集って、取り組むことができれば大変有難いと思います。

何故なら、その積み重ね、日常生活の心掛けが、「最後の審判」を選択していることになるからです。

宗教とは何かを理解する

昨日大雨が降りましたが、本日まで続くと困るなと思っていたところ、今朝は晴天に恵まれ、洗い浄めていただいて「十周年記念祭」を迎えられるという御神慮を感じました。今朝は神様に対する感謝の念というものが沸々と湧いてきて、予定より早く目覚めました。

この御神慮というものを私達は受け止めながら、これからもより一層御神業を進めてゆく上において、皆様方に是非もう一度肚に入れておいていただきたいことがあります。

それは宗教に関する認識です。宗教界では一番話題になったオウム真理教の問題を整理しておかなくてはなりません。教祖という人はチベット密教を修めて悟りを開いたと言ってます。しかしそれに続く人達が同じ悟りを開きたいために薬物に手を出し、ヘッドギアというモノを使って悟りを開こうとしたところに狂いが生じて、ああいう大事件を起こすことに繋がった訳です。

この狂いが何故生じるかというと、宗教というのは目に見えないものを相手にして、目に見えないものを中心に動いてゆくのですけれども、そこに“モノ”を取り入れてしまうと狂いが生じてくるです。ですから、日本の場合は、まだオウム真理教の問題に対して学者も整理をつけないで今日を迎えているために、本来の宗教観というものが日本人全体にキチンと整理された形で浸透しておりません。

先月も各地で触れましたように、古代の生活そのものが宗教なのです。神律あるいは自然の摂理というものを重んじて生活していた、その人間生活こそが宗教なんだということです。この認識を持っていただかないと、宗教と言うと特定の宗教団体というように勘違いをしてしまいます。人間生活そのものが本来宗教なのです。

しかし、本来の人間生活が営まれていないために、諸問題が生じているのです。ですから、私達がこのメシヤ教を通して進んでゆこうとしているのは、宗教団体という組織として進んでゆこうとしているのではなく、人間生活そのものを本来の在り方に導き、より充実した人生を歩むために信仰を培っているんだという認識です。

そういうことをこの「十周年記念祭」でもう一度認識しておいていただければ有難いと思います。

それを踏まえて私達の信仰生活は何かというと、これは教祖であるメシヤ様の追体験を日常生活で行うということです。追体験をするということは一体どういうことかと言うと、多くの方々はメシヤ様の偉大さを全面的に知らされております。だからメシヤ様という御方は「神様だ」と、そして「この終末期に救世主としてご出現された御方だ」と教えられてきました。それは、そのものなのですけれども、神様というところに力点を置き過ぎると我々の信仰生活というものがメシヤ様の追体験になってゆきません。

メシヤ様という御方は最初画家になりたかったが、眼病を患ったために画家を断念しました。画家がダメなら蒔絵師になろうと修行をされている時に人差指の筋をお切りになります。ですから御写真を見ると人差し指が反っていますね。

そこで芸術品を扱う小間物屋を始められて、大成功を収められます。成功を収められた才能に目がゆきますが、メシヤ様が一番実践されたことは朝一番先に起きて掃除をするということだったのです。何事においても自らの持ち場を掃除し、整理整頓してゆく、というご姿勢がメシヤ様にはおありになったということを改めて私達は持っておかないと、浄霊の奇蹟をいただけばいただく程私達の信仰はぶれてしまいます。

日々メシヤ様は何を心掛けていたかということを忘れていると、奇蹟をいただく程に人間が横柄になります。だから「威張るナ 怒るナ 早まるナ」という『るナ三訓』をメシヤ様は与えてくださっている訳です。

更には、メシヤ様は御在世中40万人くらいまで信者が膨らんで偉大なる教祖として仰がれた時にでも、夜2時に御神業例えば口述筆記を終えられた時に、口述筆記の担当者には後片付けをさせずに部屋を退かせています。後片付けは御自分でなさっておられます。

ここが他の教祖と全く違うところなのです。全部準備が整ったところへサッサッサーと出て来て、何か喋って「後は頼むよ」とサッと退かれるような教祖ではないということなのです。口述筆記を終わった時に「御片付けしましょうか」と言った担当者に、メシヤ様は『お前は口述筆記の担当だからそれだけをやっていれば良いのだ。部屋の片付けは私がする』と仰って、全て御自分で片付けて就寝されております。

ここが偉大なる神様であると共に、“人間として日々絶えず心掛けておられる素晴らしいお姿がそこにあるのだ”ということを私達がしっかりと捉えておかないと、自分の信仰がずれてゆきます。

ですから、メシヤ様を教祖として仰でいる信仰者というのは、「メシヤ様が御在世中の、言わば“生きざま”というものを追体験する」という生活を積み重ねてゆく生活者のことなんだということです。つまり、朝起きた時に男であろうが女であろうが真っ先に掃除から始めないといけないということになってくる訳です。

そういうことを今日は心に置いていただいて「信仰生活というのはメシヤ様の追体験をすることなのだ」と、そういうところからもう一回自分の生活を見つめ直していただきたいと願います。そして、メシヤ様の御精神を現代に求める生活というものに、より一層高めてゆこうというお気持ちになっていただけると大変有難く思います。

私達の信仰と御神業推進

御教えについては、現在、担当の方々に全論文・全質疑応答形式の御教え・詩歌を全て揃えてもらうように、作業を進めていただています。これを皆様方の手に渡しますので、それを根本の「教」として、それに基づいて現代の世相を判断する「論」を形成して、“こういう世の中だからこそ自分はどういうことを心掛けて生活をしないといけない”という「律」というものを築いていただきたい。この「教・論・律」を日々自分の中で培っていくのが信仰生活なのです。

そして、一人でも多くの人々がメシヤ様の偉大なる御力の恩恵に浴することができるように、一層宗教宗派を超えて、人種を超えて浄霊力を伝授してゆくという取り組みを進めさせていただきたいと思います。

また、浄霊を通して私達の病気が治ったり問題が解決してゆきますが、御守護をいただくというのは霊の曇りが解消するからなのです。しかし、解消された後に再度霊の曇りを発生させると、それでは信仰を何のためにやっているのか判りません。それで、霊の曇りを解消すると同時に再び霊の曇りが発生しないような生活をすることが信仰生活だということになります。

曇りが発生しないためには、『霊体一致の法則』に基づいて身体を汚さないということで、食べ物をはじめとして衣食住に細心の注意をしてゆくという取り組みが一つです。そして、「心・言・行」の中で曇りを発生させないということが同時にあります。言うこと、行うこと、思うことの中で曇りを発生させない、という心掛けです。

そういうことが揃った時に初めて、私達はメシヤ様の御教えを実践しているということになるのです。どうか、今日のこの時に再確認してください。十週年ですので、縦横諸々結ばれて今日から愈々新たなる御神業が始まります。

その御神業の中で根底に置いていただきたいことが「メシヤ様の御教えに基づいて『教・論・律』を日々形成してゆく」信仰生活を歩みながら「宗教宗派、人種を超えて浄霊力伝授する」取り組みをより一層拡大してゆくということです。

そして、自分自身が幸福者になってゆくためには曇りを解消すると共に、二度と同じ曇りを発生させない生活を心掛けてゆくということ、つまり「心・言・行」と「衣・食・住」に気を付けてゆく課題を持ちます。

そういう日常生活を送らせていただくことが今日よりの信仰生活なのだ、御神業の推進なのだ、ということを心にお留めいただいてスタートしていただければ幸いであります。

本日は誠にありがとうございました。(要旨・10年前のエピソードは割愛しました。)