メシヤ講座no.128浜松(平成23年9月)
<今月の御教え>

『文明の創造』総篇 地上天国 (文創 昭和二十七年)

 

【メシヤ講座 浜松支部】

メシヤ様は『医学の迷妄』を二つの理由で発表してくださっている

先生

最後のほうに『全人類は治る力のない医学を無上のものと誤信し、病苦に悩み、長く生きられる生命を中途に挫折して了(しま)ふ其(その)無智悲惨なる現状は、到底黙視出来ないのである。此(この)様な末期的惨状を神として、そう長く放任して置けないのは当然である。といふ理由と来(きた)るべき理想世界の住民としての健康人を作らんが為との二つの理由によって、茲(ここ)に医学の迷妄を発表するためである』とされています。この『医学の迷妄』を発表するために、実は昨年の12月と今年の6月にお渡しした『文明の創造 二 上・下』をメシヤ様はお書きになっているのだと解釈をしてもう一度『文明の創造 二 上・下』を拝読していていただきたいと思います。

ここでは二つの理由で医学の迷妄を発表するのであると明確にお書きになっていますので、この御意図によって、いわゆる病気について解説してくださっているのだという点において、その辺を拝読する想念としてはしっかり持って『文明の創造 二 上・下』を拝読していただきたいと思います。

それからもう少し上の方から見ていきますと、『之が曩(さき)にかいた如く神の目的であるから、現在迄の歴史は其(その)世界を作る過程であったので、幾変遷を経て漸(ようや)く天国の一歩手前まで来たのが現在である』と。昭和二十七年に一歩手前まで来ていたということですが、しかしメシヤ様の御昇天によって多少遅れております。このこと(『文明の創造』の内容)が行き渡っていないので遅れているのですが『この世界を一口で言えば病貧争絶無の世界である』とありますので、『病貧争絶無の世界』がいわば地上天国だということですね。

 

動物が病気を治す方法

先生

それで『病貧争絶無の世界』ということについては、今月は良い事例がありました。

火曜日の朝10時の山口で「メシヤ講座」をスタートしてここまできていますが、山口で参加している未信者さんは高齢者施設に勤めています。

その勤め先に96歳で背筋もピンとしていて、眼鏡なしで本も読めて、自分で縫い物もできる、というものすごく健康なご婦人がいらっしゃるので、その未信者さんが「どうしてそんなに元気ですか」とたずねたら、「若いときに主人を亡くして、3人の子供を育てているときに、実家に帰らずに嫁ぎ先で子供を育てた」とのことでした。子供が熱を出すとやはり親としては心配なのですぐに病院に行こうとすると、お舅さんが「病院に連れて行ってはいけない」と。

「病院に連れて行くようになると子供はどんどん弱くなっていく。人間も動物なのだから、動物と同じように病気を治していかないと、健康でなくなってしまうから、病院に絶対に連れて行くな」と止められたとのことでした。

最初はそれでは子供がかわいそうだと思ったけれど、嫁ぎ先でお世話になっている以上お舅さんの言うことを聞かなくてはいけないということで、意を決して、それ以来病院には一切連れて行くことなく、子供を育て上げたそうです。子供を病院に連れて行かない以上、自分も病院には行かないということを貫いて、96歳まで病院には一切行っていないそうです。だから健康なのだということです。

病院に行くと、病人になってしまう、と。病院にいかないで、人間の肉体は動物の部分だから、動物が病気を治す方法で、自分も病気を治していかなくてはいけない、と考えるに至ったそうです。「お蔭でここまで元気にずっと生活をされているのだと教えてもらった」と報告をしてくれたので、○○さんに「そのおばあちゃんに会いに行って、インタビューをし、その中身をテープ起こしして、メシヤ教の資料としてまとめてくれ」と依頼しました。それをみんなに提供すると、本当に健康な人はどうして健康を維持できているのかというと、病院に行かないからなのだ、と。そういう証のような話なので、是非資料を楽しみしていてください。

それから一日の日に、私が小学校4年生の時の担任の先生がお参りにきてくれました。小学校4年生の時からずっと会っていない先生なので、非常に懐かしかったです。今、見ると小さいおばあちゃんになっているけれど、最初会った瞬間に「大きくなったね」と言われたので(笑い)。「おかげさまで」と答えたのですが、教え子はいつまで経っても教え子なのですね。

実はその先生はクリスチャンで、20年くらい前に浄霊をいただいて、御守護をいただいているのですが、クリスチャンだということで、そのとき入信はせずに、それからあまり連絡もとっていなかったのですが、また体調を壊しているので、それで「一日祭があるので一度来ませんか?」と声をかけたので、お参りにきたのです。

私の担任だった先生なので、その頃私はまだ薬毒が残っていたので、真の健康体にまではまだなっておらず、非常に青白い顔をしていました。算数が得意だったので、みんながなかなか解けない応用問題を解くことができたので、「楳木君、前に出てみんなに教えてやってくれ」と言われ、黒板に「この文章がこの数式に、この文章がこの数式になるので、この数式とこの数式をあわせるとこのように答えが出ます。」ということを書いていました。文章によって数式を組み立てるということくらいは、いつも体調が悪かったけれども、頭は回転していたので、先生代わりに黒板に書いていて「非常に懐かしいですね」と言ったら、先生はそのことはほぼ忘れていました。(笑い)しかし、小学校の先生ですから、実は浄霊の原理と病気が治る原理というものを学問的に理解してもらいたいと思い、一日祭のときに話をしたわけです。要は「学校で人間のことをどのように教えてきましたか」と。今でこそ38億年前に地球に初めて生命が誕生をして、それから進化し続けてきて人間ができあがってきた、と教えているのだけれど、40数年前もやはり人間は進化してきたのだと。ダーウィンの進化論を基に進化してきたのだと教えていました。進化をしてきたならば、これもまた最新の科学でわかっていることは、38億年間進化の過程で生きてきた動物たちの要素を全部持って人間は生まれてきているということです。

わかりやすいことで言えば、「メシヤ講座」で何度も話してきていますように、ハチに刺されるとショック症状を起こして、ひどい時には救急車で運ばれることになってしまうのですが、ハチの毒は人間も持っているわけです。皆さん方もハチの毒を持っているのです。例えば、何かが入ってきた時にその菌をやっつけなくてはいけない時とか、特殊な消化をしなくてはいけない時には、肝臓が化学合成してハチの毒素を作り出すことができるのです。それでいろいろなことに対応することができるのです。しかし、その量は非常に微量なので、大した量を作り出すことはできません。しかし自分の中で作り出した毒素は、自分の中で外に排泄する能力を持っているのです。ところが、外から入ってきたものというのはなかなか排泄することができないというのと、ハチがいっぺんに刺してきたときに、大きなハチが注入してくる毒の量は非常に多いので、それで自分が分泌する量よりも多い量が入ってくるので、ショック症状を起こしたりする、ということを何年か前にここで話したことがあると思います。

それくらい進化の過程の、動物の能力、性質を全部人間は持って生れてきた。そういう意味では人間は地球上の生命の綜合体みたいなものです。ですから人間のなかにすべてのものが入っています。だから○○くんも4ヶ月目位の時には爬虫類みたいだったのです。そして、2ヶ月半のときには魚の格好をしていたのです。まだ手が出ていなかったから。お母さんのおなかの中でこうやって泳いでいたのです。それから5ヶ月目にほぼ人間の形になって、それからは脳が成長をしたのです。だから頭蓋骨が成長したのです。しかし普通の動物と人間の違いは何かというと、頭が大きくなりすぎるので、早めに産まれてくるようになっているのです。そうしないと脳が大きいので。牛とかは産まれてからどのくらいで立ち上がれますか?ほぼ一時間以内です。

人間の頭はどうなっていますか?人間の頭は頭蓋骨が組み合わさっています。それはどういうことかというと産道を通るときに、縮められるようになっています。肺はどうなって産まれてきますか?肺は風船がぺちゃんこになっているような状態で産まれてきます。そして産まれてきてから、お産婆さんとかが背中を叩いたりしてオギャーオギャーと言いだすその瞬間に、肺が膨らむのです。それから呼吸ができるようになります。

産まれてくる過程というのは、本当に不思議な形で人間は生まれてくるのだけれども、その過程はすべていろいろな生き物の過程を全部踏んで、人間がその綜合体という形で産まれてくるのです。

ですから人間はありとあらゆる化学物質を創り出すことができるのです。ですからその先生に「人間は動物の持っているすべての能力を持って生まれてきているので、肉体的には動物と同じような対処の仕方をすれば、病気は治っていくのです。ですから動物は病気になったときにはどうやって治しますか?」とたずねたら、学校の先生ですからよく知っていて、「野生の動物は何も食べずに、目も開けずにひたすら寝ています」と。寝ているということはどういうことかというと、例えば前足を骨折したとすると、骨折を治すために、血液がそこに集中してきます。しかし物を食べると胃に血液が集中するので、骨折したところに血液が集中できません。目を使うと、人間の場合、視神経は最後に出来上がるくらい、視神経は一番栄養を使います。脳の中で。一番栄養を使いますので、目をつぶっていたほうが病気の治りも早いということです。骨折を治すことに集中するために、何も食べずに寝ている、と。ならば人間もそうすれば良い、と。

しかし、人間は体力不足になるので、例えばガンになった場合にはしっかりと食べつつガンを治していかないと対応できません。やせている人たちは食べないとすぐにダメになってしまいますから、適度な脂肪を持っておかないといけないのです。適度ですよ。(笑)だから私も耐えずしっかり食べて、ここへ2センチくらいの脂肪を貯めているのです。そうすると食べないでも何とか病気的症状に対応できるからだ、ということです。それを現代人は間違ってダイエットばかりを勧めているでしょう。テレビをつければダイエット商品ばかりでしょう。あれでは不健康になるためにみんなダイエットをしているのだというのと同じなのです。病気になったら何の対応もできないから。だからあのダイエットというのは間違ったことを人間に押し付けているということなのです。その間違ったことを鵜呑みにして、みんないろいろなダイエット商品を買っているのです。

それから栄養補助食品というものも、それを食べると非常に元気がでてくるとか、関節が楽になるとか言って、いろいろコマーシャルによって買っているのですが、実は栄養素そのものを食べてしまうと、口に入れてしまうと、小腸から血液へ栄養素を取り込むという作業をしなくてよくなってしまうのです。胃に入れた瞬間に栄養素が血液に入ってしまうので、消化器官の胃から小腸の間で消化をしていこうという作業を全部放棄してしまいます。人間の体は。そうすると人間が本来の働きをしなくなってしまうので、ますます体が弱まっていくということです。だからサプリメントの生活は人間の力をどんどん奪っていくのだというように理解しておかないと。あれが良いからこれが良いからと食べていると、不健康になっていくと思いませんかと「そう言われれば、そうやなー」という先生の答えでした。

最後に「私たちが子供の頃、先生の食生活はどうでしたか?」と。これは何回も話をしていますように、夏休みの食事はほぼそうめんか冷麦かおかずはきゅうりのパターンを毎日繰り返していました。昼ごはんは冷麦かきゅうり。だから○○くんは生活できないね。きゅうりが嫌いだというから。きゅうりの塩もみが昼ごはんだから。それから夏は田舎のほうではよく山に草刈りへいっていましたね。夜明けと共に長い柄の鎌を持って、右腰か左腰に砥石と水をさげて、反対に弁当箱とお茶をさげて、担げて山に上がっていって日が暮れる直前まで、歩いてかえらなくてはいけないから一時間くらい前に仕事を終えて夕暮れの日が落ちる頃に帰ってきて、またもう一回鎌を研いだりしていました。

それから刈り取った草の塊を山のあちらこちらに作っておいて、それがある程度乾燥したら牛の背中に乗せて持って帰って、サイロに漬け込んで牛の冬用の食料を確保していました。その人たちの持っているお弁当はどうかというと、ほとんどごはんだけでしたね。昔の弁当は。おかずを

持っていく人は非常に珍しかったですね。それを現代の栄養学から考えていくと、ものすごい栄養不足です。しかし、現代人よりもものすごく健康でした。一日中働いても、一晩寝ればまた次の日山に登っていけるくらい健康でした。

「昔の人と現代の人を比べたらどうですか?しかも学校の子供たち、昔は校庭の炎天下に一時間くらいずっと〈きをつけ〉をしていることはざらにあったのですが、倒れる子はほとんどいませんでした。元々病気を持っている子はちょっと具合が悪くなったからと言って校舎の中で休んだりしていたこともありましたが、普通に元気にしている子達がバタッと倒れることはほぼありませんでしたが、今は高校生が集団で熱中症にかかって救急車を呼ぶということはざらに起きています。それを比べてみると、今は栄養がこれだけ足りているのに何故バタバタ倒れるような弱い子になっているのかというのかということを考えてみると、現代人は栄養を取りすぎているために自分の臓器が働かなくなってしまっているのです。

あるいは水分を保有する能力が非常に欠如してしまっているのだということが考えられるので、もう一度学問と人間の肉体というものを結び付けて考えなくてはいけないのではないかということを私は全国で話してまわっているのです」

とお話をすると、“なるほど”というふうにその85歳の元先生は納得して帰られて、また今度15日に浄霊をいただきに来るということなんですがね。立て続けに大分の本部での一日祭と、山口での勉強会で高齢者の方々の話題が出たのでこういうお話をしました。これは、我々がメシヤ様から教えられていることを基にして『病貧争絶無の世界』を作るときの基礎的な考えかたです。是非参考にしていただきたいと思います。

最初にそういうことをこの御教え拝読をした中からお伝えしておいて、いつものように質疑応答に入らせていただきたいと思います。

 

【御教え 『栄養の喜劇』 光十三号(昭和二十四年六月十八日)より】

栄養の喜劇とは、随分変な題と思うであろう、私もこんな言葉を用いたくはないが、外に適当な言葉を見出せないから読者は諒(りょう)されたいのである。

抑々(そもそも)今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何物でもないのである、此(この)誤れる栄養学が有害無益の存在であるに不拘、最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行われているのであるから、それに要する労力や費用の厖大なる事は、実に惜みても余りあると言うべきである。私が此(この)様な大胆不敵にして狂人とも見られそうな理論を発表するというのは今日の現状に対し到底黙止する事は出来ないからで、以下出来るだけ詳細に書いてみよう。

今日栄養剤として先ず王座を占めてるビタミンA、B、Cを初めアミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとし多種多様なものがあるが、之等を服用又は注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが持続的効果はないのである、而(し)かもその効果たるや結局は逆効果となるのであるから 栄養剤を持続すればする程人体は衰弱が増すのである。之は如何なる訳かというと、抑々人間が食物を摂取するという事は、人間の生命を持続させ生活力を発揮させる為である事は今更説明の要はないが、此(この)点の解釈が今日の学理はあまりに実際と喰違っているのである。

偖(さ)て人間が食物を摂るとする、先ず歯で噛み食道を通じて胃中に入り次いで腸に下り不要分は糞尿となって排泄されるのである、此(こ)の過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等凡ゆる栄養機能の活動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等々一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出、分布し端倪すべからざる活動によって生活の営みが行われるのである、実に神秘幽幻なる造化の妙は到底言葉には表わせないのである、之がありのまゝの自然の姿である。右の如く、人間が生を営む為に要する栄養素は総ゆる食物に含まれており、食物の種類が千差万別多種である事はそれぞれ必要な栄養素の資料となるからであると共に、人により時により嗜好が異ったり、要求が同一でないのは体内の必要によるからである、例えば腹が減れば飯を食う、喉が涸くから水が飲みたい、甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、辛いものを欲する時は塩分不足の為である、という訳で人間自然の要求がよく其(その)理を語っている。何よりも人間が要求するものは必ず美味いという事によって明らかである、故に薬と称して服みたくもない不味い物を我慢して食う事の如何に間違っているかが判るのである、昔から「良薬は口ににがし」などという事は大変な誤りで、にがいという事は毒だから口へ入れるべき物でないと造物主が示しているのである、此(この)の理によって美味である程栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚であるからである、新鮮なる程魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間が経つに従い味わいが減るという事は霊気が発散するからである。

茲(ここ)で栄養剤に就て説明するが、抑々(そもそも)体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在に恰度(ちょうど)よい量だけ生産されるのである、つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は必要だけのビタミンを生産するのである。此(この)様に食物中から栄養素を生産するというその活動の過程こそ即人間の生活力である、早く言えば、未完成物質を完成させるその過程に外ならないのである。

此(この)理に由って、栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は、活動の余地がないから自然退化する、栄養機能が退化する以上、連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化する事になるのである。之に就て二、三の例を挙げてみよう。以前アメリカで流行されたフレッチャーズム喫食法という食事法があった、之は出来るだけよく噛み、食物のネットリする程よいとされている、之を私は一ヶ月間厳重に実行したのである、処が漸次体力が弱り、力が思うように出なくなったので驚いてやめ、平常通りにした処、体力も恢復したのであった、そこでよく噛むという事が、如何に間違っているかを知ったのである、それは如何なる訳かというと、歯の方でよく咀嚼するから、胃の活動の余地がない、という訳であるからすべて食物は半噛み位がよいのである、故に昔から早飯早糞の人は健康だと謂われるが、此(この)点現代文化人よりも昔人の方が進化していた訳である。

又消化薬を服むと胃の活動が鈍るから胃は弱化するから又消化薬を服む、又弱化するという訳で、胃病の原因は胃薬服用にあることは間違いない事実である、長い胃腸病患者が消化の良いものを喰べつつ治らなかった際、偶々(たまたま)香の物で茶漬など食い治ったという例はよく聞く処である。

前述の如く未完成食物を喰い、完全栄養素に変化させるその活動こそ人間生活力であるという事を、機械製造工場へ讐えてみよう。

最初、工場に原料資材を搬人するとする、工場は石炭を焚き、機械を動かし、職工が活動し漸次完成した機械が作られる、その過程が工場としての存在理由である、之を反対に完成した機械を工場に搬入するとすれば、工場は労作の必要がないから石炭も焚かず、機械も動かさず

職工も必要がない、という訳で工場は閉鎖するより仕方がない。

以上の如く私は出来るだけ判り易く説明したつもりであるが、此(この)理によって考えれば栄養剤という何等の味もない物に多額の金銭を費し反って身体を弱らせるというのであるから、喜劇というより評しようがないのである。之が珍標題を付けた所以である。

(自観)

 

御神前について

先生

○○さん、さっきお話した続きだけど、家を改装することはできますか?

そういう予算はありますか?

参加者

今のところありません。

先生

理想的なのは一階に△△さんからもらったものを飾っているところがあるでしょう。そこの壁を少し外へ一部分出して、それに屋根をつけてもらうことができるようだったら御神体をかけても良いけどね。その部屋の真上に自分達が寝ているでしょう。そうすると神様に失礼になるから、御神前の部分だけ屋根を出して外に出すことができれば失礼にならないので、下の和室に御神体をおまつりしても良いです。

参加者

まだ予算がありません。

先生

予算がないようでしたら、さっきの場所についたてを立てて、そしておまつりするという方向で考えてください。ご主人はOKを出してくれているのね。

参加者

「額なら良いよ」と言うことです。

先生

先ほど言ったようにたんすの上に額をおまつりすれば良いので、そのためについたてをね。

参加者

ついたては巾1メートルくらいで良いですか。

先生

高さもほしいからね。そのついたてはちょっと高いかもしれないけどね。

どこかにあるでしょう。実家とか。踊り場に御神体をかけるわけにはいかないから、踊り場にならないようにしておかないといけないので。そのためにはついたてが一番良いから。

参加者

借金がまだあるから。

先生

借金を返し終えてメドがついたらできるようになるでしょう。それから外壁を塗り替えないといけないというようなことも起きてくるでしょう。15年、20年経ったら外壁やり直さないといけないから、そういうことと合わせて工事をすれば良いから。

 

善言讃詞の奏上の仕方について

先生

この岡山支部の挨拶を読んで確認したいことがあれば。出雲支部の挨拶と岡山支部での挨拶で善言讃詞の奏上の仕方というのは、だいたいご理解いただけましたでしょうか?

□□さんは大体何年くらい○○○○やっているのですか?

参加者

平成5、6年からです。

先生

その頃だと天津祝詞はない時代ですか?

参加者

その頃は両方奏上していました。

先生

天津祝詞を奏上していて何か疑問を持ったりしたことはないですか?

これはね、三重支部の体験記の中で、神床を作り変えて御神体をいただく前、「御神体を申し込むと同時に御神霊のお働きをいただく」という話に基づいて、御神前ができてから支部が発会する前に、ご夫婦で壁にむかってご参拝を始めた時に、奥さんが見えたものを覚えていますか?

実は奥さんが信者さんと一緒に参拝をしたときに、御神前に階段みたいな段がみえて、その一番上の段に主神様の御文字が浮かび上がって、「御神霊というのはおくだりいただけるのだな」というくだりが体験記に書かれています。

メシヤ教ホームページ 三重支部 濵口安子さんの体験記

そのことをここの御神前に当てはめてみたときに、なんか考えるようなことはありませんか?

例えば天津祝詞を奏上するときに、天津祝詞の文言の中に、『祓戸大神等諸々の枉事罪穢を祓ひ給へ淨め賜へと申す事の由を』とあります。

そして『天津神国津神八百萬の神等共に天の斑駒の耳振り立てて聞こし食せと』と書かれていますね。主神様にお祈りしているのになぜ『祓戸大神等諸々の枉事罪穢を祓ひ給へ淨め賜へと申す事の由を』という言霊を奏上するのか、という疑問が起きたことはありませんか?

若い人は大体そういう疑問が起きるはずです。まあ若い時にはあまり熱心にお参りしてなかったからね。子供が生まれてから熱心になってきたから、あまり疑問に思わなかったかもしれないけれど。そういうことで解説を受けたことはありますか?神社とかで。どうですか?

そうすると、今まで私自身も本部で一日祭をするときには、主神様のおまつりをする場所はここが中心になっているので、様々に御経綸を担う神様方もお参りにくるということで、この12年間というのはより掃除に取り組んできたのです。そういう神々様が見えてくださるのに、汚いところでは申し訳ないということで、掃除に掃除を重ねて、当日の朝は誰も玄関の出入りをさせずに、どうしても出かけていけないのは最初に出させておいて、それからは誰も出入りさせずに土間まで雑巾で拭きあげて、御神霊を迎える準備を毎月してきました。その御神霊が見えるからこそ、その一日祭のお参りを大事にしてきたのですが、その見えた御神霊がどういうように一日祭に御参列下さるかということを考えたときに、三重の濵口安子さんが見えた御神前の姿と、過去のいろんな人たちが霊視をしたときの報告が他のサイトなんかでありますね、メシヤ様に八百万の神々が額ずく姿を見てというのがありましたが、そうした光景を拝察できるのではないかと思われます。

おおよそ御神前に座れる方々というのは、ここに大黒様がいらっしゃいますが、御神床に座ることのできる神様のお一人ですよね。大黒様のいわれは、元々力持ちだった人間だったけれど、すごい力持ちであるがゆえにすごい形相をしていたので「弟子にさせてください」と言ったときに、神様が「もっと笑わなくてはいけない。もっともっとニコニコしなさい。そうしたら弟子にしてあげる」と言われたので、笑うことを一生懸命努力していくうちに、こういう形になって、福の神の一柱になられたというのです。

そこまでなられたので、元々人間だったけれども、神格を得ることができて、人格神としてここに御鎮まりになっています。

そうすると、天国に、神界に在籍した神々がここに神床に座ることができるのですね。そうするとおおよそ天国界というのは、最上天国の一番最上部に主神様が御鎮まりになっています。そして第一天国に八百万の神々の中で大きな役割を担った、国常立尊様や伊弉諾尊様、伊弉冉尊様などの高い神格のもとに御経綸を担われた神々が上のほうにいらっしゃるわけですね。それから静岡県でいくと、一宮の神様はわりと高いところに在籍して、遠州一帯を御守護してくださっているのです。氏神様の中では、そういう高い御神格の御神霊もあれば、ここの町内だけを見ておられている氏神様、下のほうにいらっしゃる神々もいらっしゃいます。

そういう神々が、その立場と神格の高さに応じて、その段数の中に整然と居並んでいらっしゃるわけです。この御神前には。特に月次祭ということになると、今日参列した方々に関る氏神様や霊統系の神々がみんなここに、主神様の御許に集って皆さん側をみて参列を受けているのです。その参列を受けているときに、『祓戸大神等諸々の枉事罪穢を祓ひ給へ淨め賜へ』と唱えたときに、参列した中の祓戸大神様が前に出てきて、よく救世会館で幣(ぬさ)を振っていたでしょう。そういうのでパッパッと皆さんを祓ってくださるのです。そういう役割の神様が前面出てきて、まず天津祝詞で浄められます。浄められたあと、メシヤ様の御作りになった善言讃詞を唱えることによって、霊界が天国になっていくのです。

そういうことがあるために、この月次祭はありがたいのです。そして、我々の先祖はみんなの肩なりに乗ってお参りにくるわけです。その中で神格を得た先祖がいれば、こちら側の下のほうに座れるわけですね。これが、目には見えない御神前の御姿だというふうに思って、より一層、“天津祝詞や善言讃詞をお唱えすることがいかにすばらしいことか”ということを思っていただければ、大変有難いと思います。それだけに前日の掃除が大変大事になってくるのです。そこをおろそかにするとその程度の神々しかおりてきてくださらない、ということになります。だから御神体をいただくと、そこはいつも真っ先に綺麗にしておかなければいけないということになります。掃除を中心にしていただきたいと思います。

 

参加者

先ほど先生からご指導いただいた場所を、なぜか昨日綺麗に掃除をしていました。建てて初めてワックスがけをしてしまいました。

先生

そうですか。なるほど。そういうことを心がけていただいて、そして言霊をもう一回かみしめながら奏上させていただくということが、参拝する上で非常に大事になってきます。

参加者

玄関に金魚とウーパールーパーのいる水槽がありますが、それは構わないですか?

先生

それはあまり関係ないけれど、清潔にしていれば。今、ウーパールーパーは見直されてきていますね。進化のね。それから再生する能力が一番あるらしいですね。

観賞用だから、水をいつも清潔にして、ガラスもよく拭き掃除をして、管理を良くしておいてください。私は水槽とかを管理するのが面倒なので、家には置きませんが、そういうのが得意な人はいるのでね。

参加者

月次祭のときの御神前の様子はわかったのですが、毎日の朝夕拝のときはどうですか?

先生

そのときにはおまつりではなく、朝拝だから、主神様の許で働いている祓戸の神様がスッと出てきてくださって、祓ってくださいます。主神様御自身はそういうこまごまとした御働きはないから。概念としては宇宙、半径150億光年の大きさなので、細かいことは下の役割を担った神様がやってくださるのです。しかし、そうしたことをしていただけるという感謝の気持ちで祝詞を奏上することが大事です。

そして、○○さんはさっき、動物のお話をしたように今はとにかく焦らずに、こういうことができるようになったといってもやらないで、できるだけ生活は手ぬきをしておかないといけません。できるだけ体を休める時間を作らないと。先程押さえたところが非常にまだ凝り固まっているから、そこをほぐすようにほぐすようにしていかないと。焦ったり、人から言われたことを気にしたりしていると元気になれないからね。そういうことを心がけていただきたいと思います。

 

願いごとはどのように…

参加者

今、こんなことを聞くと笑われるかもしれませんが、

先生

今、笑っておこうか(笑い)

参加者

朝拝や夕拝のとき、お願いごとをいつすれば良いですか?朝、必ず子供たちのことや自分のことをお願いしたいのですが・・・。

先生

「私は願いごとがあります。」ということを朝拝の前に神様に奉告をしておいて、それから天津祝詞を奏上したら良いから。だけどお願いする分、御玉串をあげないといけないよ。感謝箱でいいから、御玉串を入れてからお願いをしないと。

参加者

いつも同じことを言っているから、そんなに毎日毎日言わなくても良いわけですね。

先生

大体そういうことは家庭祭のときにそういうことを祈りを込めて御玉串を包むので、それを頼んでおけば、そう毎日しつこく言わなくても。

参加者

あんまりしつこいと嫌われるよとも聞いたのですが。

先生

神様は一度聞けば分かっているから。

参加者

感謝の気持ちはいつ言えばいいですか?

先生

感謝の気持ちは主神様の御神名を唱えることが一番感謝すべきことだから。唱えさせていただきまして心から感謝申し上げますという気持ちを持って『惟神霊幸倍坐せ』と唱えるのです。感謝というのは、小さい感謝ではなくて、一番大きい感謝が主神様の御神名を口にするだけで有難いわけだからね。それが一番大きい感謝ですから。そして、日々いろいろなことで、例えば息子がお小遣いをくれたとか、息子が無事旅行から帰ってきたとかはその都度感謝すれば良いのだから。

参加者

信仰読本とは何ですか?

先生

信仰読本とは「『祈りの栞』に寄せて」です。サブタイトルが信仰読本で、メインのタイトルが「『祈りの栞』に寄せて」です。通常、信仰読本はこの本のことを言います。

○○さん、久しぶりにここの月次祭にきてどうですか?

参加者

光を強く感じて、あたたかいです。

参加者

岡山の挨拶の中に支部へのご案内のときに気をつけることが書かれていますが、浜松ではそのようにさせてもらっていると思いますが…。

先生

週二回の参拝は時間と曜日を決めているので、それが支部の都合と、この家の都合と、そういうことで決めているのです。

 

人間を弱くしていっているのは経済至上主義

先生

△△さん、体調は最近いかがですか?

参加者

ここ2・3週間は調子が悪かったのですが、今日は調子いいです。

先生

そうですか。それで顔色が良いわけですね。

参加者

顔色を見ると自分でもわかります。

先生

真っ青な顔のときが、だんだん今のような顔色に常時なっていきますから。自分の動物の部分を活かしていかないといけないのでね。どうしてもいま文化的な仕事に従事しているので、どうしても人間的な部分が重視されていくけれど、人間の肉体は動物なのだと、最後にこの地球に出現してきた動物なのでね、だからそういう存在だということをよく理解しておいていただきたいと思います。

最後に出てきたのですが、人間として出てきたのは600万年前といわれています。なぜかと言うとその600万年前の遺体の胸元に花を手向けた跡があったので、葬式をしたのだろうということなのです。これが600万年前に人間が出現したという証拠になっています。葬式をしたということが。で、それから600万年かけて人間がさらに磨かれてきて現代人になっているのです。そういう存在にも関らず、今は逆に弱くしていってしまっています。弱くしていっている理由は何かというと、経済至上主義です。

お金中心の世の中になってから弱くなってしまっているのです。「健康のためですよ」と言いながら、実はサプリメントを売りつけるために健康のためだと言っているのですから。

本来は、健康のためにはサプリメントを食べないというのが、本当の健康のためですから。しかし、健康のためですよと言ってみんなにサプリメントを売りつけるのは、経済至上主義があるということです。我々の頃から子供を育てるときに「ちゃんと勉強しないと良い所に就職できないよ」と言って育てられてきました。「良い所に就職できない」ということはどういうことか、と言うと、“金儲けできないよ”ということを脅されながら勉強しているのです。「良い人格を身につけるために勉強をしなさいよ」と言って育ててきた親はこの日本中にどれだけいたかだね。テストの点が悪いと怒っている親が多い中で、「テストの点が悪くても良いから、人間を磨いていきなさいよ」と言う親がどれだけいるか。しかし「テストの試験が悪くても良いよ」とばかり言っていると、悪い点ばかりとりだすからね。適度に点数も上げる方法を教えておかないといけないね。

 

「尊い信仰をされていますね」とまずは敬意を示す

参加者

今月の「メシヤ講座」に「低いレベルで声を掛けてしまうことのないようにしていただきたい、と願っております」とありますが、低いレベルというのはどういうことでしょうか?

先生

自分達の思い込みが多いでしょう。〇会の人たちはこういう人が多いとか。例えば「〇〇新聞をいつもとってくれ」と言いにくるとか、いう思い込みがあって“困ったもんだ”という気持ちが、〇会の人たちに向けてありがちです。〇会の人たちは〇会の人たちで役割があってやっているので、「いい信仰をやっていますね」 と声を掛けて、もう少し話すことができるようになれば、「本来、日蓮上人のやろうとしたことは、〇会ではどのように教えていらっしゃいますか」と、問いかけると、レベルが段々上がっていきます。そういう話をしていると。恐らくそういう話は教えていないだろうから、そうすると「どういうことですか」と尋ねられるだろうから、「日蓮上人は日本人で唯一お経を全巻中国語で読まれた方らしいですよ。

読んだから当時の日本の仏教は間違っていることに気が付いて、仏教改革に取り組んだのです。しかし仏教改革に立ち上がるけれども、当時はもう仏教界と政治、いわゆる武家が癒着していたので即刻迫害を受けたために、日蓮上人はそのような人たちを律国賊と言って批判したのです。批判すれば する程さらに迫害を受けたので、もう仏教改革よりも日蓮宗を作らざるを得なくなってきたのだ」と。

そういうことに敬意を表し、自分が分かっていて相手と話しているうちに、どの段階まで相手はわかっているかということをさぐりながら話をしていかないと・・・。いきなり「あなた達は日蓮上人の本来の精神をわかっていないんですよ」と言ってしまうと、話にならないでしょう。「尊い信仰をされていますね」 と話し、どこまで日蓮上人のことを知っているかということをさぐりながら話をしていきます。そして、仏教改革のことまでわかれば、「それがあるからこそ現在の夜昼転換を迎えることができたわけだ」と。そこで初めて「岡田茂吉教祖はこのようにお話されています。」

と。その段階までわかったひとにだけ『夜昼転換』の話ができるのです。

で、「『夜昼転換』の話がわかれば〇会の方でも浄霊ができますよ」というふうに次には繋いでいけるのです。そのように数ある段階を経て、相手との話を積み上げていって、浄霊力伝授までもっていけば、レベルが高い対応ができたということになるのです。

参加者

2,3日前に〇〇〇の証人の人が家に来たのですが、 その方たちにはどのようにお話させていただけば良いでしょうか?

先生

〇〇〇の証人だから。『世界救世(メシヤ)教 教義』に沿って対応すればよいのです。その〇〇〇の証人の証人としてやるところが限定された宗教観を持っている部分があるのと、我々にとってとても大切なところは輸血を拒否するということ。その点は大変評価すべきことだから、評価

すべき話というところをまず評価してあげたあとに、「実はエホバ、そのものから御力を私たちはいただいているのです。だから浄霊力として取り次いでいるのです。」という話に繋いでいくことができれば話す意味があるのです。

今、本部にも〇〇〇の証人で学んだ人が浄霊をいただきに通っていますが、それはそのような過程をずっと積み上げて話してあげれば、証があるからこちらのほうが良いということがわかってくる。そのような話を一番最初から答えをバーンと出して言うと、拒否反応をしてしまうから、じわりじわりとメシヤ様の御教えにつながっていくような話をしてあげれば良いです。これがルナ三訓の中の“早まるな”という内容の一つです。もうわかっているからと高い話をポーンとしてしまうと、その瞬間に拒否してしまうことがあるから。もうわかっただろうか、わかっただろうかと念押しを自分の中でしながら段々レベルを上げていかないと。いきなりメシヤ様のところをドーンと話をしてしまうとわからないから。わからないから拒否するわけです。みんな。

その逆がやりたくないときに「難しいですね」と言うでしょ。良い話について、実践したくない時に「いや、難しいですね」 と。そういうふうに、相手の話の理解度を見ながらやっていくと良いと思いますね。

では時間になりましたので、終わらせていただきます。

ありがとうございました。