メシヤ講座・特選集no.41(平成16年6月分)
<御教えより>
仏教の起源
(1951年10月25日発表)

分らねばならない事は、元来仏身なるものの根本である

観世音菩薩の御本尊は、伊都能売神である事は、以前から私は度々(たびたび)知らしてある処であるが、之に就て分らねばならない事は、元来仏身なるものの根本である。単に仏といっても実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。そうして本来仏とは約二千六百年以前、釈尊の時から生れたものであって、其頃迄は今日の印度(インド)は、当時月氏国(げっしこく)とも言われたので、同国に於ては余程以前から彼の婆羅門教が隆盛を極めていたのであって、此婆羅門教なるものは、教義のようなものは更になく、只(ただ)肉体的難行苦行によって、宇宙の真理を掴もうとしたのである。今日でも絵画彫刻等に残っている羅漢などは、其(その)苦行の姿であって、此姿を見ても分る如く、樹上に登って鳥の巣の如きものを拵(こしら)え、それに何年も静座をした。当時の高僧鳥巣禅師(とりすぜんじ)などもそうであり、又掌の上に塔の模型の如きものを載せたまま、何年もジットしていたりする等、何れも一種異様な形をし乍ら、合掌座禅をしており、一々見る者をして、奇異の感に打たれるのである。酷(むご)いのになると、板の上に沢山の釘を打ちつけ、其上で座禅を組むので、釘の尖で臀部に穴が穿(あ)き、出血と共に其苦痛は名状すべからざるものがあろう。然し此我慢が修行なのであるから、到底今日では想像も出来ないのである。


面壁九年の瞑想を続けた達磨大師

彼の達磨大師にしても、面壁九年という長い歳月座禅のまま壁に対(むか)って、瞑想を続けていたのであるから、其苦行は並大抵ではあるまい。茲(ここ)で一寸(ちょっと)達磨についての説であるが、右(上記)の印度の達磨大師とは別に、今から千二三百年前、支那にも同名異人の達磨が現われたので、之がよく混同され易いようである。支那の達磨は聖徳太子の時代日本へも渡来し、太子に面謁(めんえつ)されたという相当確かな記録を、私は見た事がある。

仏教出現までインドで尊信を集めていた行者達

話は戻るが、婆羅門の行者達は、何故それ程の難行苦行をするかというに、之に就ては其頃多くの求道者達は、競って宇宙の真理を知ろうとして、其方法を難行苦行に求めたのである。恰度今日学問の修業によって、博士号や、名誉、地位を得ようとするようなものであろう。そうして達磨に就ての今一つの面白い話は、彼は面壁九年目の或夜、フト満月を仰ぎ見た時、月光が胸の奥深く照らすと思う一刹那、豁然(かつぜん)として大悟徹底したので、其喜びは絶頂に達したという事で、それからの達磨は、見真実の如くに如何なる難問にも明答を与え、当時抜群の行者として、多くの者の尊信を集めたという伝説がある。

出山した釈尊はインドの救世主の如く信奉の的となる

そうして当時の印度に於ては、日本でいう天照大御神と同様、人民の最も畏敬の中心となっていたのは、彼の大自在天神であった。其外大広目天、帝釈天等々、色々な御名があるが、之は日蓮宗の曼荼羅に大体出ているから見れば分るが、兎(と)に角、婆羅門教が圧倒的に社会を風靡していた事は間違いない。処が其頃突如として現われたのが、言う迄もなく釈迦牟尼如来であった。此経緯(いきさつ)は後にかくが、兎も角、皇太子であられた悉達(しった)太子が、修行終って大覚者となり、出山したのである。太子は幽現界の真相を会得し、燃ゆるが如き大慈悲心を以て、一切衆生を済度せんとする本願を立てた。そうして其手段として先ず天下に開示されたのが、経文を読む事によって覚りを得るという方法で、之を大衆に向って大いに説諭されたのだから、当時の社会に一大センセ-ションを巻き起したのは勿論である。何しろ当時婆羅門式難行苦行を、唯一無二のものとしていた事とて、喜んだのも無理はない。何しろ之に代るべきものとしての読経という安易な修行であるから、茲に大衆は釈尊の徳を慕い、日に月に仏門に帰依する者続出するので、遂に釈尊をして、印度の救世主の如く信奉の的となったのは無理もない。其様な訳で、遂に全印度を仏法化して了ったので、之が仏教の起源である。それからの印度は、さしもの婆羅門の勢力も、漸次萎靡(いび)不振となったのは勿論であるが、といって全然消滅した訳でなく、今日も一部には尚残っており、同宗行者は仲々の奇蹟を現わしているという事で、英国の学者中にも研究の為印度に渡り熱心に研究するものもあるとみえ、私は先年其記録を読んだ事があるが、素晴しい奇蹟の数々が、掲載されていた事を今でも憶えている。

(本論の『伊都能売神』は次回掲載)

Q&A

「地上天国祭」の由来

Q.  『日本人種の霊的考察』の(上)~(下)を拝読して「地上天国祭」を迎える、というご指導をいただき6月になりました。改めて、「地上天国祭」の由来についてお伺い致します。

A.  神代から今日までの日本の裏面史的内容でしたね。今後、日本を中心にして世界の文化がどのようにして発展してきたのか、という内容をお伝えしたいと思います。あのアインシュタインが日本をして、「世界の文化の中心がここだ」と述べさせしめた経緯にまで辿り着くと思います。

さて、「地上天国祭」の由来については、3つばかり挙げておきます。

 (1) 「夜昼転換」の神事

教祖ご自身、昭和元年(1926年)にご啓示を受けられております。ところが、我々凡人と違いまして、すぐに教祖とはなっておりません。まず、その内容の検証を行なっております。ご啓示の内容が、先ほどの教えのようにそれまでの人類の知識とは大きく異なるものばかりだったからです。また、ご自身『婦人科以外のあらゆる病気を患った』と述べられているように、病気に対する「判釈」を有する下地を持っておられて、それらに一つひとつ照らして検証されたのですね。お子様方も随分と実験台にされています。

その作業に5年余を掛けられております。そして、救世主としての任を決意されたのが昭和6年(1931年)のことです。そのご決意があって、6月15日の「夜昼転換」の神事に臨むために千葉県鋸山に登られております。この時に啓示を受けた、という捉え方を前の教団執行部ではしておりました。そのことが、教祖の神格を落としてしまう事になり、それがやがて「ご法難」へと繋がり、紛争を繰り返す原因となりますが、それはまたの機会にお話しましょう。

ここで大切な点は、教祖の決意があったからこそ「夜昼転換」はあった、ということです。それ故、メシヤという存在なのです。そして、それから立教まで3年余を要しております。この間に浄霊法の確立、とりわけ浄霊力をどのようにして万人へ伝授するか、ということに苦心しておられます。弟子の中で初めて浄霊を許された人は、教祖の『浄霊を許すからやってみなさい』というお言葉で許されております。

この『浄霊を許す』ということを形にしたのが、教祖ご揮毫の「御守り」をいただくということでした。そして、御昇天の前年である昭和29年に浄化のために御文字をお書きになれなくなり、『御守りはなくてもよい。入会者の氏名、年齢、職業を私に報告するだけでよい』と、執事にお言葉を下さっております。私達は、メシヤ様から『許されている』という自覚を強めていかねばなりません。

(2) 地上天国の雛型完成

次に挙げられるのは、箱根神仙郷の完成です。昭和28年6月15日に「箱根地上天国完成記念祭」が執行されました。前年の6月15日に「箱根美術館」が完成し、オ-プンに際して6月29日から7月1日までは、各界の著名人や地元有力者を招いての美術館の開館披露がなされました。そして、設立の趣旨を説明されています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、芸術を美の誘惑として拒否した時期もありましたが、やがてそれらの宗教への帰依の心から優れた芸術文化が花開いたことは周知の事実であることを踏まえて、『宗教本来の理想は、真と善に加えて美の世界を作ることにある』ことを力説されています。そして、日本の使命は、この美によって世界人類を癒し、文化の向上に寄与することにある、と述べられております

また、地上天国の雛型を建設するのは、宗教本来の理想を実現し、日本が神から与えられた使命を果たす一助とする意図に基づいていることを強調されております。私達も、小さくとも「我が家を地上天国の雛型にする」取り組みに努めて参りたいと思います。そういう意味からも、現在開催されております「浜名湖花博」に出かけて、大いに参考にすることも大事ですね。

なお、日本美術の名品が数多く海外へ流出することを政府でさえ手を打つことができずにいた敗戦直後、先んじて、日本の伝統芸術を守り、優れた芸術を大衆に開放しようと努力した姿勢は、現代社会の芸術振興活動の礎となったことは周知の通りであります。

(3) メシヤ降誕仮祝典の執行

そして、最後に、昭和29年(1954年)6月15日に執り行われた「メシヤ降誕仮祝典」を挙げたいと思います。昭和29年4月19日浄化にはいられた教祖の肉体に、その後神秘的な変化が起きました。その一つは、掌に五本の筋が現われたことです。その一本一本の指に、指先から付け根まで縦皺が鮮やかに刻まれたのです。観相家によれば、「神様が現われたことを意味するものである」ということです。

第二の神秘は、髪の毛に現われました。教祖の頭髪は全て白髪でしたが、掌の変化と時を同じくして側頭部の鬢(びん)の後部に子供の頭髪のような黒髪が生え始めたのです。

同6月5日に主だった資格者を招集された教祖は『メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生れた訳です。・・・このメシヤというのは、世界中で最高の位なんです。・・・だから、私が出て初めて人類は救われるのです。』と述べられています。

そして6月15日の祝典において、当時の大草管長から「今後は、教祖を『明主様』から『メシヤ様』とお呼びする」という発表がありました。

このことを私は大変重要に考えておりますし、機会あるごとにこのことをお話して参りました。近年、離脱教団の中で、「メシヤ降誕本祝典を行う」と述べている代表者が出始めているようですが、結構なことだと思います。

肝腎なことは『神は意志である』ということであります。『日本人種の霊的考察』で理解したいことの一つは、『意志』を通すということです。地上天国を建設するという、意志ですね。これは、『良いことは諦めないが肝腎』という教えに通じますね。ただし、個人的なことで「諦めない」ということを通すと、我執になりますので、ご注意ください。

「地上天国祭」を期して、さらに、自分自身を天国天人にする、我が家を天国にする、周囲の方々を天国に導く、という意志を強くお持ちください。

皇室について

Q.  皇太子のご発言をめぐって、宮内庁のあり方から「女帝」容認論にまで、様々論議されていますが、日本にとって相応しいあり方はどのようなことでしょうか?

A.  こうした問題に触れる時に想い出されるのは、数年前に国連総長が来日した折の話です。天皇陛下について、お会いすると‘日本の君主は普通の王様とは全く違った存在だ’と感じたそうで、強いて言うならば「ロ-マ教皇のような存在」と語ったそうです。これは大きな意味を有していると思います。

 (1) 「覇権王」ではなくて「祭祀王」

まず、日本人として理解を深めていただきたいことは、天皇は「覇権王」ではなくて「祭祀王」であるという認識です。この点、ヨ-ロッパの王室と大きく違います。ですから、敗戦を迎えても「亡命」などをなされないのです。それから、原則的に私有財産を有しないことも、英国などと随分違います。

また、現代の日本社会では、「お宮参りで人生をスタ-トして、教会で結婚式を挙げ、死んだら寺のお世話になる」という人が多い一方で、「無宗教を誇る」という人も多いですね。日本人の宗教的感性は多様です。そうした様相を「日本教」と称する人もいますが、当たっている部分があります。「日本教」とするならば、その祭祀を司る頂点という存在が天皇です。

ですから、例えばオリックスと近鉄が統合するという話題に対して、賛否は述べられず、もし質問があれば、「プロ野球界の発展を祈ります」というご発言になるのです。個性を表にお出しにならない、という崇高な存在なのです。ただし、当事者に対して「確実に発展へと繋がるように努力しなさい」と声なき声を掛けられているのです。その御心を拝すことのできない人は適材とは言えないのです。巷間語られているような「開かれた皇室」論では、その存在の意味をなさなくなるのです。

 (2) 敗戦処理を早く終らせる

また、今回の問題の根本には、第二次大戦に敗戦した後の、検証を日本国家がなしていないということがあります。昭和22年に秩父宮家、高松宮家、三笠宮家以外の十一宮家の「臣籍降下」(皇籍離脱)を決めた時に、今日のような「女帝」論は予測できたはずなのです。その見直しが、50年間なされてこなかったことが、日本の最大の問題なのです。

この「見直し」というものは、頂点の皇室から、裾野にいる国民に関わることまでです。その意味では、小泉さんの「構造改革」は戦後の総決算的な政治課題であります。神意もそこにあります。ブッシュと仲良くやるのも結構なのですが、アメリカのために最も金を出している日本国民がアメリカ国民より悪い条件下で生活する状況に終止符を打たなければダメです。

その点、民主党の「高速道路無料化」は大変評価できます。自民党は「財源をどうするのか」と反論しますが、それは官僚に指示する内容なのです。今は本末転倒の政治手法になっています。ガソリン税も「1/3位にする」と言えば、民主党も立派ですし、一挙に参院選の投票率も上がりますよ。

経済は上向いていると論じられてますが、日本中悲惨ですよ。全国を歩いてみると、商店街は‘シャッタ-通り’化しているところが多いですし、国道沿いにあったドライブインなども随分閉店しています。活気が今一つありません。年金問題のみならず、日本の金の使い方は戦後の延長線上です。真に国民のために使っているとは言えないところが目に付きます。

O-157などから始まった補助金制度に対する警笛は、BSEなど各分野に広がりを見せています。あるいは「安全神話の崩壊」を実感させる事件が重なり、「日本人の精神生活を本来のあり方へと戻さねばならない」と訴えてきましたが、一挙に皇室までに及んだ感を否めません。国の在り様を根底から問い直すことに本気で取り組まねばなりません。

(3) 法華寺の逸話

こうしたことに関連して、前回までの教えに登場した光明皇后(大和民族の代表格)について触れたいと思います。私は、先ほど光明皇后に縁(ゆかり)のある法華寺を訪れました。帝の崩御された後、静かに余生を送られ、大いなる信仰に御身を隠されるまでお住まいになられた旧蹟です。現在も尼僧の方々によって守られている清楚な寺であります。

ちょうど「本尊特別御開扉」の日でしたので、お像を拝するために伺いました。この寺には、から風呂伝説と旧蹟があります。皇后は、ここに浴室を建て、「千人の垢を流す」という願いを御仏に誓われました。そして、九百九十九人を終えて満願の日に、満身膿にまみれた一人の人間が皇后の御前に現われます。「自分の病気は、人の口で膿を吸ってもらえば治ると言われているが、誰も嫌って、肉親すらも寄り付かない」と嘆くのでした。皇后は、意を決しられてその者の膿に唇を触れられます。その刹那、人の姿は消え、観世音菩薩の貴い御姿へと化した、というものです。

ご本尊の「木造十一面観音立像」は、皇后をモデルとして仏師が彫り上げたものと伝えられています。ちょっとおみ足を踏み出され、素晴らしく長い右の御手で天衣の端を摘んでおられますが、遠くの人をも救い上げるという意志の現われだと言われます。

その昔、インドの王が、生身の観音像を拝したく、仏に祈願したところ、「当国随一の仏師文答師をして日本に渡らせ、光明皇后を拝して像を彫るべし」とのお告げをいただき、その願いが叶って、三体の観音像を彫り上げたという伝説です。その中の一体を記念としてこの寺に残したと伝えられています。

本来、皇室は諸外国の要人からこのように拝せられる存在であります。勿論、日本国民からも、ですね。しかし、「身近な皇室」を望む時に、国民が高まる過程で身近になるのは目出度い事なのですが、低いままの自分達に近づけようとすればとんでもない事になります。

因みに、ここでも大願への意志の強さが出てまいりました。この機会に心に留めておいてください。