メシヤ講座で『文明の創造』の創造を学ばせて頂きましたが、その『科学編』についての「メシヤ講座での各所の学びをまとめていく」という構想を楳木先生はお持ちでした。一人でも多くの人が大浄化を乗り越えられるためにとの『文明の創造』に込められました、メシヤ様の深い愛と、現代の人により分かりやすくと願われた先生の想い(慈悲)を出来るところから少しづつでも形にしていきたいと思います。
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【御教え】『医学の解剖』

 私は前項迄に、医学の誤謬(ごびゅう)を大体かいたつもりであるが、尚(なお)進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。只(ただ)誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心坦懐になって読まれたいのである。それには先(ま)づ事実によって、説明してみる方が早かろう。先(ま)づ何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧模糊(あいまいもこ)御座(おざ)なり的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就(つい)ても言ひ切る事が出来ない。貴方の病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此(この)療法が効果ありとされてゐる。此(この)療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊(き)くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外(はず)れる事の、如何(いか)に多いかも医家は知ってゐるであらう。
 そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈(はず)である。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉(わた)って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或(あるい)は両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮に治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆(ほと)んどは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此(この)事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈(はず)である。此(この)例として主治医といふ言葉があるが、若(も)し本当に治るものなら、それで済んで了(しま)ふから主治医などの必要はなくなる訳である。
 右によっても判る如く、若(も)し病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈(はず)であるのに、事実は凡(およ)そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベッドが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処(どこ)かに、一大欠陥がなくてはならない筈(はず)であるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。
 そうして、診断に就(つい)て其(その)科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆(ほと)んど区々(まちまち)である。といふのは茲(ここ)にも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若(も)し一定の科学的規準がありとすれば、其(その)様な事はあり得る訳があるまい。若(も)し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈(はず)である。処が事実は一般人と同様処か、反(かえ)って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而(しか)も医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論であるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘(かか)はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委せる事など出来ない訳である。それに就(つい)てよく斯(こ)ういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。
 私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異う数は、一寸(ちょっと)口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反(かえ)って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯(こ)ういふ場合どう説明したら、患者も其(その)家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ?々(しばしば)あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。
 此(この)様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍(なが)ら診断と結果が、実際と余りに喰違(くいちが)ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼(か)の有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服(の)ませし薬吾服(の)む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直(じき)に治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其(その)夫人は大いに感激して、医師を廃(や)め、本療法に転向させるべく極力勧めたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以(もっ)て其侭(そのまま)になってゐる人もある。今一つ斯(こ)(書籍では斬*)ういう面白い事があった、十数年前或(ある)大実業家の夫人で、顔面神経痳痺の為、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往(い)った事がある。其(その)時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが其(その)際懇意である其(その)病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰(いわ)く〝その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処(ここ)の病院でも奨めやしないか〟と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ヶ月程で全快したのである。
 偖(さ)て、愈々(いよいよ)医学の誤謬(ごびゅう)に就(つい)て、解説に取りかからう。


医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない

今日の御論文を拝読していただきました。それで最初の三行目の『と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。』というところですね。メシヤ様の御心というのは医学を誹謗(ひぼう)するために、この御論文を書いているのではないのだ、ということがしっかりと腹に入っておかないと、いけないということですね。

で、ある教団の現状をみてみますと、病気になった時にまず最初に「医者に診てもらいなさい」と言う話が出てくるのです。医者に行きつつ浄霊している人が多いと思うのです。これはね、何でこういうことになってしまったのかというと、あまりにメシヤ様御在世当時から奇蹟が多かったので、メシヤ様のこの御論文で『別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。』とおっしゃっているのにも拘(かか)わらず、浄霊をして奇蹟が出ると、当時の先達の方々は大勢の方々を救ったのですけれども、どうしてもメシヤ様の教えを実践していかなければとして、〝一生懸命やっている医者達を馬鹿〟にしたりとか、〝何にもわかっていない〟だとか、〝我々の方がずっと素晴らしいのだ〟とか。こういうふうな気持ちになりがちなわけです。

これをメシヤ様は戒(いま)しめられているわけですけども、しかしどうしてもみんなから「先生。」「先生。」といわれたり、「先生のおかげで救われた。」と御礼の言葉とか御礼をしたりして、本当はメシヤ様の御力を取り次いで奇蹟がでたのですけども、どうしても〝先生の力が強い〟だとか・・千人とか二千人とか一万人とかいう教会になってくるとそういう話になってしまいます。

そういった時に実はこっちが奇蹟がでるのというのと医者では治らないということでどうしても誹謗(ひぼう)する形になってしまいます。これがズーッと進んでいくと一生懸命研究している人達の努力というのがわからなくなってきます。これが譬(たと)え話でいいうと「亀とうさぎ」の話になります。うさぎとは浄霊で奇蹟がでていることです。科学的にコツコツコツコツどうしてこんな病気が起きるのだろうかと研究している人達は亀のようだけども少しずつわかってくる部分もあるわけです。

奇蹟がでている人がみんな人を救いたいということでメシヤ様に繋がってきてそして一生懸命やっているのですけども、実は驕(おご)りがでてしまったり、他の一生懸命やっている人達よりも自分も方が神様に近い偉いということがズーッとくると、科学的なことでいろんな病気のことを解明している人達の方がある日追い越していってしまうのです。追い越される時に気づかないでいると、浄霊力までだんだん無くなってくるのです。驕(おご)りも広がっていくのです。

さらにメシヤ様が御昇天になられて組織運営が中心になっていきますと今度は医療対浄霊というような対立関係まで生まれてくるのです。
だからこの『誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。』『毫末(ごうまつ)もない。』とおっしゃっておられることを、教団にいる人間程しっかりと肚に入れておかないといけないというところがあります。

メシヤ様を信仰する信者の方が今や時代遅れになっている

そして、そういうどこまでも誹謗(ひぼう)することではないということを、まず腹に入れておいてそこから下の方へ拝読していきますと、医者の返事の仕方が『「入院すれば治りますか」と訊(き)くと、「それは請合へない」』とか『実に撞著的(どうちょてき)言葉である。』とありますね。こういうふうに、昭和二十七年に医者の姿勢についてご指摘されておられます。これが六十年たって医者達がインフォームド・コンセントという概念にやっとたどりついたというわけです。
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Wikipediaより抜粋 最終更新 2011年11月29日 (火) 15:37
インフォームド・コンセント
インフォームド・コンセント(英語:informed consent)は、「正しい情報を得た(伝えられた)上での合意」を意味する概念。以下、本項では「IC」と略称する。
特に、医療行為(投薬・手術・検査など)や治験などの対象者(患者や被験者)が、治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受け十分理解した上で(informed) 、対象者が自らの自由意思に基づいて医療従事者と方針において合意する (consent) ことである(単なる「同意」だけでなく、説明を受けた上で治療を拒否することもICに含まれる)。説明の内容としては、対象となる行為の名称・内容・期待されている結果のみではなく、代替治療、副作用や成功率、費用、予後までも含んだ正確な情報が与えられることが望まれている。また、患者・被験者側も納得するまで質問し、説明を求めなければならない。
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ですから大きな教団ほど信者さん方にインフォームド・コンセントの概念を徹底的に教育しておかないといけないのです。しかし、あまり布教所ではそんな話はでないでしょう。
まずは「医者にいって診てもらいなさい」というところまでは良いとして、「診てもらったらどうだったの」と聞いて「こういう薬を処方されたならばその薬はどのような効能とどのような問題点があるのかということは聞きましたか」と聞いて下さい。
そして今、浄霊という力を持っている人以外の常識としては、たとえば「癌になりましたと。あなた手術しましょう。」と言われたら必ず後二つの病院に診てもらう。これが社会の問題意識を持っている人達の常識なわけです。そして3つの病院に診てもらって三つとも「手術をしなさい」と言われた時には手術を受けるというのが今や常識になっているのです。
ですから一つの病院だけ聞いて手術するというのはあまりにも子供的な対応の仕方なのです。だから、社会の常識は三つの病院に診てもらう。それでもなおかつ「手術した方が良い」という時に手術を受けるというのが世間の常識になっています。
しかし、それでは〇〇教の信者さん方はどうかというと、すぐに手術する人が増えていっています。そうしますと世間の人達よりも〇〇教の人達の方がメシヤ様の御心から遠ざかっていっているのです。
『先(ま)づ何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧(あいまい)模糊(もこ)御座(おざ)なり的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就(つい)ても言ひ切る事が出来ない。貴方(あなた)の病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此(この)療法が効果ありとされてゐる。此(この)療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方(あなた)の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方(あなた)は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊(き)くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。』と曖昧な返事しかしないということを御指摘しておられるのですから。その御指摘に対してやっと今世間の常識がインフォームド・コンセントとしてまとまってきたということです。そこでメシヤ様を信仰する信者の方が今や時代遅れになっているということです。メシヤ様がこのように御指摘されておられるに拘(かか)わらずその信者が一番時代遅れの対応の仕方をしているということです。
このことをぜひ気づいていただかないといけません。そのために『文明の創造』を世に出してしていこうとしている最大の理由があるのだというふうに受け止めておいていただきたいと思います。
今の話は浄霊を抜きにしての話ですからね。本当はそのような状態になった時には浄霊を中心にして、どこを浄霊すれば御守護いただけるかという話をしていかないといけないですね。

メシヤ様の御心に沿うには薬理学の研鑚が必要
メシヤ様御降臨祭で紹介しようと思っているのですけども今わかりやすい本が出ていますのでね。「薬が効く過程」ということを図解して解説しています。例えば口から入った場合には小腸から吸収されて門脈に入って門脈から肝臓に入っていってそこから全身にわたるという薬のルートということをわかりやすく説明している書籍があります。十二月二十三日には本の名前とか詳しくご紹介しようと思います。
信者さん方に読んでいただきたい薬理学の本とそれから皆さんをお世話する側の人に読んでいただきたい、たとえば看護師さんの試験とかに出てくるような内容の本とかね。皆に理解していただきたいと書かれた本が最近良くでているのでその中から皆に見ておいていただきたいという本がありますのでね。
そこまで世間の人達は薬なら薬の効き方と解毒していった時に解毒から排泄する過程まで薬理学では学ぶので、排泄する時にどのように排泄するかということを解説を加えています。ということはメシヤ様の御教えを読んで薬毒論を知っている人よりも、そのメカニズムをこのような本を読んだ人の方がよりわかりつつあるという時代を今迎えているのです。
そうすると、布教所の先生や責任者達がこのことを勉強していなければ略(ほぼ)信者さん方に曖昧(あいまい)な伝え方しかできない時代を迎えてしまっているということですね。
メシヤ様の御心に基づいて日々研鑚を重ねている専従者でなければ、〝信仰していてもどうしてもメシヤ様の御心からずれていった方向へ行ってしまうのだ〟ということがある、ということを知っておいていただきたいと思います。
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Wikipediaより抜粋 最終更新 2011年11月17日 (木) 09:53
門脈
門脈 (もんみゃく、英: portal vein、羅: vena portae)とは、解剖学の概念で、二つの毛細血管網にはさまれた血管を指す。一般には、消化管を流れた血液が集まって肝臓へと注ぎ込む部分の血管、肝門脈を指すことが多い。
ヒトの血管系では通常、心臓→動脈→毛細血管網→静脈→心臓と血液が流れるが、特殊な場合として心臓→動脈→毛細血管網その1→門脈→毛細血管網その2(洞様毛細血管)→静脈→心臓という構成がある。特に、上腸間膜静脈と脾静脈が合流し、肝臓へ向かう部分の血管を指すことが多い。この血管は肝門脈とも呼ばれ、消化管、膵臓および脾臓からの血液を受け、消化管で吸収された栄養分を肝臓に運ぶ極めて重要な血管である。(肝臓は動脈からも血液の供給を受けている。そのため、血流の二重支配を受けているという。)
門脈からは肝臓を通らず直接静脈系に注ぐ経路もある。通常この経路を流れる血液はごく少量であるが、肝硬変等によって門脈の血圧が上昇するとその側副路に流れる血液が増加し、門脈圧亢進症や食道静脈瘤などが出現する。
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浄霊に科学性を持って取り組む
『余りにも科学性が乏しいと言へよう』と御指摘になっておられます。これはメシヤ様が〝科学的にきちんと説明できないといけない〟というお気持ちを持っておられるということです。それが浄霊と浄化論、薬毒論は『神科学だ』とおっしゃっておられる所以です。『神様が示された科学である。それに基づいて病気を治していく。』というメシヤ様の御心を汲(く)んで、科学性ということを受けて、我々はいろんな情報を手にして進んでいかないといけないと思います。
さっきの本は癌のメカニズムまで図式で書いてくれていますから。癌のメカニズムというのは科学物質が加わった場合と、それからみなさん方に校正していただいた『文明の創造(三)』に真症癌の理由ということが書いてあったでしょう。蛇が呑(の)み込んだり、殺されたその恨みが原因だと。そうするといくら治療しても治らない痛みとか癌性のものとかあるでしょう。それはもうそういうところまで診て、そして前々生のところまで解決する気持ちで取り組んでいかないと真症癌は治らないということです。
ですから二面性を持って「化学物質によって癌化した細胞を治す」場合とそれから「前々生から来ている病気を治す」という取組というのは基本的に浄霊というのは一緒なのですけども前生の認識、前々世の認識からきちんと人間のいわゆる霊性が高まっていく。本来の人間になっていくという取組をしていかないといけません。そういう点でこの科学性というところは良くマークを入れておいていただきたいと思います。

【御教え】『文明の創造』宗教篇 癌病(文創 昭和二十七年)
『之から真症胃癌の原因である憑(ひょう)霊(れい)の事をかくのであるが、此(この)霊は殆(ほと)んど蛇の霊である。蛇が其(その)人の前生の時か又は祖霊に殺された為に、其(その)怨霊(おんりょう)が恨みを返へさんが為憑(かか)って苦しめるのであって、此(この)症状は主に腹部全体に亘(わた)り、形は小さいが蛇の如く、或時は丸く、或時はクネり長くなり、恰度(ちょうど)泳ぐやうに移動するのである。』


『捉われる』『他を顧みない』は自分に対する問いかけ
それから次の箇所ですが、
『現代医学の何処(どこ)かに、一大欠陥がなくてはならない筈(はず)であるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。』と書かれていますね。この部分は医者に対する批判であるのですけども、同時に自分に対して問いかけてみるお言葉であるというふうに考えておいてください。要するに『捉われる』ということと『他を顧みない』、これは問題解決の上において問いかけるに不可欠な取組であるという事です。
要するに問題が起きるということは何かに捉(とら)われているから問題が起きるわけです。ですから常に捉(とら)われてはいないのかということを考えていかないといけません。
自分が小さいころから成長する過程において親から言われたこと。学校で言われたこと。それから友達から言われたこと。そういったことが自分の中に捉(とら)われとして残っている部分があります。この捉(とら)われとして残っている部分があると、一つの問題を形成していく可能性があるので“何とか問題を解決したいなあ”と思った時に“自分は捉(とら)われた考えを持っている部分はないだろうか”ということを自分に問いかけないといけない言葉であるということです。
これが一つとそれからもう一つの『他を顧みない』ということは、人から指摘や助言を受けた時に「素直に耳を貸す」という取組をしていかないと問題解決ができない部分があるので、この『捉われる』ということと『他を顧みない』ということは、ここではご批判に使っておられるのですけども、自分に対する問いかけとして受け止めておいていただきたいのです。

家族同士で浄霊できるというところを日々目指そう
それから次ですね、
『医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘(かか)はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。』とあります。家族の事ですから、自分が一番心配だから自分が治してやらないといけないはずなのに、今は医者の世界としてはどうしても予断がはいるので他の医師に診てもらうという姿勢をとっています。
しかし、そこへいくと浄霊というのはね、家族で治していけるということがあります。一晩でも二晩でもズーッと浄霊してあげられる。この素晴らしさがあるということが一点と、もう一つは同時にですね、浄化をいただいた時にはやはり家族が浄霊をしてくれるというのが良いので、そういう点では家族同士で浄霊できるというところを日々目指していただきたいと思います。
それからその下の方に医者の悩みとかが出てきて、
『医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり』とあります。江戸時代までの医者のやっているということは時代劇の中で出てくるよりも古い医者達、蘭学が入ってくるまでの日本の医療はなにをやったのでしょう。ほぼ話を聞いていただけなのです。話を聞いてそれから慰めていたのです。それから薬草が少しわかっていましたので、「お腹の痛い時にはこういう草を採ってきて煎じて飲みなさい。」とかね。自分で作ったりしていました。
若い頃は怪我した時に、我々の方ではね、蓬(よもぎ)ですね。蓬(よもぎ)の葉を二~三枚採って揉(も)むと汁が出てくるから、それを使います。ですから薬草みたいに取り扱っていましたね。これが江戸時代までそのようにしていたのです。まあ、昔からの言い伝えなわけで、ズーッと人間の知恵でね、こんな時はこの草が良いということを教わって食べてじーっとしていればだんだん良くなってくるということを経験によって得て来たのです。その人がなぜお腹が痛くなっているかということを良く聞いて食べたものとかね。それから「この機会に言うけどももっと嫁さんを大事にしろよ。」とか。それからお嫁さんには「亭主にあんな言葉を使っちゃだめだよ。」とか言って修正してあげるんですね。医者が。
これは先月も此処(ここ)で自然宗教と創唱宗教の成り立ちをお話しましたが、その自然宗教の一番根っこには「人々を守る」ということからできてきているので。だから守るためには夫婦生活をきちんとする。家庭のあり方を医者が言ってあげていたのです。
もうひとつはお坊さんもそういう話をしていました。ですから家庭が円満にいくようにお坊さんと同じような役割を医者が担っていたのです。こういうようなことから少し日本人の歴史というものを垣間見ていただければと思います。

メシヤ様は真理のわかった人は偉い人だと評価された
それから最後にですね、
『私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。』と書かれています。ですからメシヤ様も医者であれ何であれ真理のわかった人は偉い人だと評価をされておられたということです。このことがわかっていませんとやはり医者の言うこととか薬理学をやっておられる方のお話から良いものを見つけ出すということが出来なくなってしまいます。
それで十二月号の文芸春秋に椎貝達夫(しいがいたつお)医師が「患者よ あなたに透析は必要か」という論文で「保存療法」のことを紹介しております。保存療法に取り組んでいけばおよそ今の透析を受けている患者の三分の一(13000人/37000人 新たに透析を導入する人)に減らせるということを訴えているのです。
それはなぜかというと透析をすると年間どのくらい病院にお金が入るでしょうか。年間約520万円/人だそうです。それで透析患者が日本に約297000人います。透析患者の自己負担額はだいたい1万円・月、12か月12万円です。すると残りのおよそ5百万円は国、保険料なのです。保険料といっても税金ですからね。年間1兆円を超えるのです。しかし、受けないと生活できない人達がいるので医学上は透析は人の命を救っているということにはなる。ですから、その点は私も否定は致しません。しかし、本当に透析を受けなければいけない人は腎臓が何%働かなくなった人だと思いますか。命に関わってくるのは腎臓の濾過機能が5~7%にまで低下した時だそうです。ところが今透析を受け始める患者さんは何%くらい動かなくなった時だと思いますか。大体ね腎臓機能が60%働いている人でも透析を勧められているのです。40%だめになった人が透析を勧められるのです。医療的には5~7%から60%までこれだけの幅があるのです。ほとんどの医者は60%まで落ち込んだら透析を勧めるそうです。そして、一度透析を行うとやめられなくなるのです。さらに腎臓の機能が落ちていきますからね。
病院は絶対につぶれませね。しかし、一番大変なのは患者さんなのです。まだ腎臓が働いているのに透析をかけられる。6割が動いているのに透析をかけられるとこの6割がほとんど機能しなくなってしまうのです。ガガガガガーと弱まっていってしまいます。しかし保存療法をすると残りの5~7%までは我慢していけるのです。この差というのは何年間も透析を受けるのを先送りできるということです。今こういう現場ですよ。ということを医師が訴えてくれているわけです。
新年号で保存療法の具体的なやり方を紹介してくれるので合わせて読まれたら良いかと思います。そうするとね、浄霊をしながらどのような生活をしたらよいか。どんな食生活をしていったらよいか、というヒントを得ることができると思います。腎臓の浄化の対応策(浄霊と生活指導)ができるのではないかと思います。
このような捉(とら)え方をしていくことがメシヤ様が『私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。』とおっしゃられた御心に近づいていけるということではないでしょうか。
保存療法の話をしましたが浄霊をやっていくと保存どころか回復していくから有り難いのです。透析療法が普及しはじめたのは、ちょうど私が腎臓を悪くして医者が「家で死なせなさい」と言われた数年後です。ですから、私がもっと遅く生まれていたら透析されて浄霊には繋がらなかったかもしれません。透析療法が普及する数年前に私が生まれてきていましたので腎臓病を患って腎臓が一切働かなくなって尿毒症が起きてしまいました。それで「家で死なせろ」といわれて家に連れて帰られたころ、母親の叔母から「浄霊をいただいてみないか」と言われて浄霊をいただいたらおしっこが出るようになったのです。
ですから浄霊をいただくと腎臓が保存どころではなくて回復してくるのです。
それで私はそれから52年間生き続けています。