立春祭御講話(S29年2月4日)

 今日は立春とともに旧の正月の元日になるそうです。いつも、立春というが、早いように思うのです。とにかく今年は大いに意味があるのです。まだ発表はで きませんが、昨日、今日すばらしいことがあったのです。いずれ話をしますが、それは神様の型です。それで、非常にめでたいことなのです。というのは、節分 というものは“福は内、鬼は外”で、鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこ れは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」 というのがありましたが、国常立尊のことを略して常立の神と詠んだのです。それからもう一つ「艮の神」ということも入れてありました。そういうようで、つ まり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。もっとも三千年ということになってますから、三千年前 はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さないとい うために――大本教のお筆先などを見ると分かりますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういうやかましい神様は 押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込められたわけです。押し込めた方の神様は天若彦(あめにわかひこ)神というのです。これはよく天邪鬼 (あまのじゃく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊とい う神様を、艮(東北)に押し込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。もっとも忌み嫌うわけです。人間の方が間違ったことをすれば、そう いうやかましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除けと言って、いろんなことをやったのです。そういうわけで、三千年押 し込められたとしてあります。そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口なお刀自の口を借り て怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神 がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(ししく)です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警 察に引っ張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。
 その艮の金神という神様は、押し込められて肉体の方はなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪 穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間 が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういうことを言ってました。それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見える のです。これはおもしろいです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、“この世の閻魔”というこ とは、現界の審判をなされるということです。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。“この世に現われて”という のですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけ です。では、それはいつかと言いますと、だいたい明治二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ず つだんだんと近寄ってくるのです。それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初 日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っ ていればありがたいのです。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を 立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件がめちゃめちゃに現われてきました。よくもそういった不正事件が出るという ことは、今までに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるというこ とは、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明るくなるのです。だから今まで隠していたり隠蔽していたものが 現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういうことが出てくるのです。それから今年からまた一段と病気が多くなります。それとともに薬毒が だんだんはっきりしてくるわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世教というものの発展が著しくなり、大い に発展するわけです。その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐があるわけです。今まで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱る わけです。今まで十回も二十回も話をしなくては分からなかったのが、今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。そうかといって、神様のこと は急に目に見えるようには現われないものなのです。つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。今年、来年、再来年というように、年々早くもな るし、それからはっきりもしてくるのです。
 とにかく今年から神様が表になったということは、確かなのですからして、そこで救世教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。いわ ば、いよいよ舞台に上がったわけです。今までは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。やっ ぱり芝居と同じですから、序幕です。これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがありま す。お筆先というのは実によく書いてあります。というのは、今まで随分教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。ところがそういう人に “あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない”とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。それは悪い人間でなければできないような良い 役をしてます。だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。これがちょうど、今言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分か るのです。もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができ るのですから、なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。そういうようで、神様がやられることは実に深いです。ですから“あの人 はああいうことをしているから悪い、間違っている”ということは、とても言えるものではないです。そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやって いて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞ よ」というのがあります。“これが神様のためだ、これが本当だ”と言って一生懸命にやっていることが、案外神様のお邪魔になっているというわけです。そこ で人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。また分かるものではないのです。ただ、自分が良いと思うことをしていればそれ で良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(かいびゃく)以来ない大きな仕事なの です。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。よほど大きな器で、要するに大局的に 見るというわけです。“大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である”ということはなにごとにもあります。私はこの間も書いて、栄光に出ていると 思いますが、日本の忠君愛国の、天皇のため日本のためということが実は悪なのだから、日本のため陛下のためのみを思うから大東亜戦争のようなものを起こし たのです。その“ため”と思った結果、朝鮮も支那も、ほうぼうの国も、みんな酷い目に遭うわけです。そうしてみると、我欲、自己愛という結果になります。 だから世界人類のためということが本当なのです。私は最初から忠君愛国的のことはぜんぜん言わなかったのです。どうしてもそれでは結局悪なのです。そこで 世界人類というところに目標をおけば、これは本当に正しいことなのです。この小乗的考え方が非常に難しいのです。そこで、神様のために一生懸命になってい て、実はお邪魔をしているということは、やはり小乗的のためなのです。自分の小乗的頭で考えると、それはどうもいけなくなるのです。ところが大乗的という のは、要するに結果です。一人でも多くの人を仕合せにするというところに目標をおけば、別に難しいことはないので、分かるわけです。自分の家族の者でも、 亭主とか女房とか親父とか娘とか伜(せがれ)とかが、どうも神様のことが分からない、いつも反対して困るということは、ある程度は分からせたいと思っても よいが、あんまりそれに固執するということは、やはり小乗的考えです。それよりか、他人、世間の人間を多く分からせたいと思うことが本当です。そうして他 人を一人でも多く救えば、その酬いが自分に来るからして、自分の家族でもなんでも分かるというわけです。よくお蔭話に“どうも自分の伜が分からない”と か、そういうようなことがありますが、これはまだ本当の線に入ってないのです。だから自分の家族などは神様にお任せしておくのです。そうしてどこまでも世 間一般の人を一人でも多く分からせなければならないということです。それもこれも、その人によって分かる時節がありますから、ある程度までは一生懸命に やっても、その先は神様にお任せするというようにしておれば、かえって結果がよいので、早く分かります。そこで、こういうことがあるのです。
 今言ったとおり、艮の金神様を押し込める方の総大将が天若彦尊とすると、天若彦尊という神様は天邪鬼的で、非常に素直でないのです。いわゆるケツ曲がり で、なんでも曲げるのです。それで、その一派がずっと世界を支配してきたからして、人間の心というものが、みんなそういうふうに歪んできたのです。だか ら、どうも逆になるのです。良いと言って奨められると、ちょっとあべこべになって、“あんまり奨めるから……そんなしつこく言わなくても、オレだって分か らないことはない”と言って、逆に変に反対になるのです。そういう癖が非常にあるのです。特に日本人には多いです。ということは、天若彦尊の系統が多いわ けです。そこで、お筆先に「素直が一等であるぞよ」ということがあります。というのは、あまりに人間が素直でないからです。いろんなことで聞いたり見たり しても、アメリカ人などは非常に素直です。だから一致するのです。日本人というのは、その点においては実に変わってます。アングロサクソンの方は、政党で も二つか三つしかありません。とにかく政党でも宗教でも、なんでも日本が一番多いようですが、これはまた実に、反対な、素直でない、一致しない、というの は、日本人の性格です。ところが日本人というのは霊的に見ると一番高いのです。一番優秀なのです。だから、浄霊をするにも――今に世界中の人を浄霊するよ うになるでしょうが――日本人が一番治ります。それは霊が一番強いですから……。そこで日本という国は、邪神の方では一番に狙うわけです。ですから日本人 が良くなると世界中が良くなるのです。世界の種みたいなものです。それを今の人は知らないから、かえって白人の方が良いと思っているのです。女の人などは アメリカの兵隊とか、そういったアメリカの人に惚れるのです。日本の青年の方が軽蔑されているのです。今の若い女性は、アメリカ人に身を任すということを 非常に喜んでいるようです。というのは一つの崇拝です。あっちの人が偉い、上等だと思っているのです。ところがナンゾ知らん、日本人が一番上等なのです。 そこで、艮の金神様のお筆先にそういうことを非常に残念だということが、よくお筆先にあります。ですから霊的レベルは、日本人は地平線より上にあるので す。日本人以外は全部下なのです。ところが日本人があっちの人を崇拝すると、やっぱり下に落ちてしまいます。ですから、これも――艮の金神様という最高の 神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手なことをしている――「神も残念であるぞよ」というお言葉があります。それはそういう意味なのです。 それがとにかく現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関が救世教です。そこで救世教が今年からいよいよ世界的に知れてくるわけで す。これは神様はちゃんとそういうふうな仕組みになってますから、そうなることは分かってます。それが、いよいよ今日がその初日になったわけですから、そ のつもりで見ているとよく分かるわけです。それで今年メシヤ会館ができるということは、その現界的に変化をする、転換するということがピッタリ合うわけで す。いつも言うとおり、熱海は体の方ですから、つまり現界的に現われるわけです。地上天国が、今年は会館と水晶殿、来年は美術館というようにできるという ことは、とにかくそれからが本当に世界的に知れてくるわけです。日本から知れるのが本当ですが、なにしろ日本中が今まで外国崇拝になってますから、神様は それを利用して、外国から先に分からせるということになっているのです。お筆先に「灯台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがあります。一言 にして実によく……寸鉄殺人的に書かれたわけです。そういうようなわけで、いよいよこれからおもしろくなってきたというわけです。そうして、それについ て、地上天国は、芸術が救いの一つの大きな役目をするわけですが、それはどういうわけかと言うと、地上天国ができますと、それは見物人がたいへんです。少 なくとも日本人の半分以上は見に来るでしょう。この間のアメリカの新聞記者のグリリという人と、もう一人は名前は忘れましたが――観光事業の方を専門にし ている人です――この人たちの話では“アメリカに来ればどうしてもナイアガラの瀑布(ばくふ)を見なければならない。それと同じように、日本に来れば熱海 の地上天国を見なければならないということになる。岡田さんはそれほどには思っていないだろうけれども、確かに僕はそう断言する”と言っているそうです。 ところが、私はそれ以上に思っているくらいです。
 そうするとみんな見物に来ますが、その見物に来た人は、霊的にはちゃんと神様の方に結びつけられてしまうのです。そうしておいて、結びついた人の中にも いろいろな人がありますから――結びついた人は因縁のある人ですが、因縁のある人の中にも上中下があるわけですから――つまり結びついた人は救われる候補 者になったわけです。選挙民の投票の札をもらったようなわけで、政治に対する容喙権(ようかいけん)を得たわけです。ところが、なにしろ長い間に穢されて ますから、その資格に落第する人があります。だからみんながみんな救われるわけではないが、まずある数は救われるわけです。ですから、要するに地上天国と いうのは、神様のメンタルテストみたいなものです。そうして救われる人と救われない人との立て分けという意味もあるし、それからまた見に来た人は、みんな そこである程度霊は浄められますから、そこで救われる資格に、一つの印をつけられるわけです。だから神様はどうしても見なければならないような物を造られ て、そうしてそういう方法をとられるということは、実にうまいと思います。これが、宣伝ビラとか講演とかいろいろなものもあるのですが、一ぺんに多くの人 を寄せたり、知らせたりするということは、とうていできるものではないです。こういうすばらしい、見なければならないような物を造るということは、実にな んとも言えない巧妙な方法です。そう長くかかってもしようがないから、三年や五年の間に何千万人も来るだろうと思ってます。それほど評判になるわけです。 それで、とにかくこれは、アメリカの新聞記者も言ってますが、今世界で私のやっている仕事ぐらいの大規模な有意義なことをやっている人はない、と言ってま す。これは私は予期したとおりですが、とにかくアメリカの人がそれだけ認める、発見したということは偉いと思います。それはとうてい日本人などは足下にも 寄りつけません。それで非常に期待して、できたら大いに世界的に宣伝するということを言っているのです。だから大いに張り合いがあるわけです。けれども、 神様の方から言うと、なんでもない話で、着々とそういう品物を造られているわけなのです。今行ってみても、かなり大規模にすばらしいのですが、私の設計で はこれからまだまだずっと変わります。それはとうてい今見ただけでは想像がつかないくらいの立派なものになります。ですから話したところで、ちょっと想像 がつかないから、話をしてもしようがないです。この間もグリリさんがどこかの大使館に行って話したそうですが、そういうのはぜひ研究したいというようなこ とを聞いたそうです。“私はなにも言わない、とにかく行ってみることだ、それよりほかに言う必要はない”と言っていたそうです。そういう具合で、まったく 私としてもしゃべりようがないくらいなものです。なにしろ神様の計画は、まだまだとうてい想像がつかないくらいなもので、規模も大きいし、立派でもありま す。
 それで来年は美術館の建築にかかりますが、美術館は箱根とはぜんぜん違う様式です。だいたいはコルビュジエ式ですが、そのほかに支那風の所と日本風の所 も取り入れることになると思います。これはあんまりケバケバしくなくて、あんまり新しがらない、ごく落ちついた、西洋の中世的の気分、感覚を大いに取り入 れる考えです。そうして無論三階建てですが、三階の特別室などは、とにかく日本美術としての代表的のような物を並べます。それで、アメリカあたりの知名の 士を随分連れてくるそうで、ロックフェラーなどにも話しているようです。これは先の話ですが、無論アメリカにもああいう物を造りたいと言うに違いないです から、そうしたら私はアメリカにも設計して造ってやろうと思ってます。行くのは面倒くさいから、図面と話でやろうと思ってます。そうして無論美術館も、最 初はそうはゆかないでしょうが、最初はあっちのそうとうな美術館を、今できているのか、さもなければこしらえるかしますが、そうして東洋美術の世界的の宣 伝を本式にやろうと思ってます。去年やったような、巡回展覧会で各地をまわったのでもそうとう刺激はしたようですが、あのくらいでは、なかなか本当の紹介 にはならないです。昨日ある人――文化財保護委員会の役員をしており、京都の人です――が、日本画がほとんど油絵になってしまって、日本画というものがな くなってしまった、という話からいろいろ話したのですが、それについて横山大観などが、大いに憤激して、東京の池之端に家を建てて、日本画の復活運動をや るというようなことを言って、結局岡倉天心に帰れというような意味を主にしてやるようです。それについて私は言ったのです。つまり日本画家、特に若い画家 が油絵になってしまうという一番の原因は、東洋の良い物を見る機会がないからです。また見ようと思っても見る機関がないからです。ところが油絵の方は、ど んな物でも見ようと思えばすぐ見られるのです。そこでみんなパリーに行きたがります。パリーに行けば、昔からの有名な絵はすぐに見られます。日本の展覧会 でも、西洋の絵なら今すぐにも見られます。ところが日本の良い絵とか、支那の絵は、見ようと思っても見られないのです。では、博物館はどうかというと、私 はいつも国辱だというぐらいなものです。本当の日本画にしても支那画にしても、良い物はそれこそ一割もないくらいで、百分の一くらいなものです。ほかの美 術館にはないし、個人の美術館があっても、みんな油絵です。ですからつまり見せなければいけないので、見せて初めて“これは良い物だ、これをまねしたい” という意欲が起こります。ですからそういう物がないから、油絵の方に走ってしまうのだ。そこで、そういう良い物を見せるという、それを私はこれからやるつ もりだ、と言ったら非常に共鳴して、“ぜひやってもらいたい”と言ってました。ですから今言う東洋美術の良い物を西洋に紹介するとともに、日本人に見せな ければならないのです。そうでないと、日本画はなくなってしまいます。この間栄光に書きましたが、展覧会に行って、私は最初入ったときに――油絵はいつも 後にあって、最初は日本画だったのですが――今年は油絵の方を先にしたと思ったのです。それで連れの者に“今度陳列が変わったのだね”と言ったところが、 “これは日本画ですよ”と言うから、よく見るとなるほど日本画に違いないのです。絵の具は日本のに違いないです。ところが絵を見たら油絵です。これはたい へんだというわけだったのです。しかし心ある者はそれを歎(なげ)いているようです。ですからそれには本当に良い物を見せなければならないのです。私はそ ういうことを考えて、箱根美術館にも出さなかった良い物をそうとうとってあるのです。というのは、そういう物をやたらに出すといたむのです。特に絵はそう です。ですから絵は短期間でなければならないのです。ところが箱根美術館では時々陳列替えをするのはたいへんですから、どっちかというと、それほどの物で もないような物を出していて、時々勝れた物を出すようにしていたのです。そういうわけで、本当のすごい物というのは熱海の美術館ができたら本当に出すつも りです。特別室なども造って、ここはとうてい見られないというような物も見せます。これはアメリカの偉い人などが来たときに、そこに招待して見せるつもり です。そうなると熱海の地上天国は無論世界的の話題になりますから、外国から来る人たちもたいへんだろうと思ってます。そこで救世教というものが一ぺんに 世界的になるわけです。アメリカの人は「箱根美術館」「熱海美術館」というのは本当ではない、「救世教美術館」とした方がよいと、非常に言っているので す。私もそうしたいのだが、なにしろ日本は新宗教というのは信用がないから、そうするとかえって天若彦的に考えられるから、そこで無事に、当たらず触らず に「箱根美術館」「熱海美術館」としたのですが、いずれは「救世教美術館」という名称になるでしょう。もうしばらくはそこまではゆかないわけです。
 これからのだいたいの動きをお話ししたわけです。

御講話(S29年2月5日)

 昨日は立春で、一昨日は節分ですが、この節分というのは大本教にたいへん関係があるのです。最初大本教を開いた神様は国常立尊という神様です。この国常 立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押し込められたということになってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたの です。それで、あんまりやかましい……というよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他のたくさんの神様が艮(東北)に押し 込めたわけです。その神様は三千年の間隠退されて、その間霊界にいて閻魔大王となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立 替え立直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞ よ」ということと「今度は炒豆に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総 大将が天若彦尊という神様ですが、その時に“炒豆に花が咲いたらふたたび出てこい。それまでは出られないように押し込める”ということなのです。ですから してあの豆まきということは、そういう意味なのだそうです。これは信じられないことはないです。ところが、それに対してお筆先には「今度は炒豆に花の咲く 時節が来るぞよ」というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それがいつかというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日にたいへんな 神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞ よ」という“艮の金神の世になりたぞよ”ということは、自分が世界の支配権を握るということです。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われ るのです。それが一昨日その型があったのです。神様はすべて型でやり、型を見せるということになってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年 も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思ってい るのです。では、その結果どういうことになるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は 滅びるというお働きです。それがこれからはっきり現われてくるわけです。その点から大いに変わるわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと 日本が元ですから……。ですから、つまり霊界が明るくなるわけです。明るくなるということは、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボ ツ増え始めるわけです。それからいろんな悪いことも秘密なことも浮かんでくるわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出てきますが、こ れも今まででは珍しいことです。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、ある時期にゆくと、病気の増えるのも……これは 一ぺんになりそうです。ですからそうなったら、いつも言うとおり、とても忙しくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。その代わり信者の人で も、少しボヤボヤしていたり、あるいは神様の言われることに違ったりすると、手厳しくやられることになるのです。それもボツボツは出ているようです。これ はあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常におもしろいです。そこ で、人間が我を通していばったり、言うことを聞かなかったりするとやられる、ということが、だんだんひどくなるわけです。
 そういうわけで、今までとは違ってきます。特に、来年いっぱいで熱海の地上天国が完成しますから、これができると、それは現界的にはっきりしてきます。 まだできかかりですからそこまで行ってませんが、まだボツボツというところです。熱海の地上天国もやっぱり型です。神様はなんでも型で見せますから、型と いうことをよく注意して見なければいけないです。それで、つまり型が育つのです。そういうようなわけで、大本教というものは、やはりたいへんな意味がある のです。しかし、大本教の意味というものは、つまり私の仕事の準備です。「弥勒三会」と言って、仏教の方の言葉があります。「弥勒三会の暁」とか、あるい は「弥勒三会の鐘が鳴る」という言葉がありますが、弥勒というのは、三人あるのです。それは日の弥勒、月の弥勒、土の弥勒というわけで、日、月、地になっ ているわけです。それで、弥勒の中心というのが伊都能売の身魂です。大本教の教祖という方は、「イズの身魂」と言って、つまり経です。これは父になるわけ です。次の出口王仁三郎、聖師様という方は母の身魂になるわけです。だから、変性男子(へんじょうなんし)と変性女子(へんじょうにょし)と言って、女で いて男、男でいて女というわけで、霊と体とは違うわけです。それで、教祖の父と聖師の母との間に生まれたのが私になるわけです。ですから私が伊都能売とい うわけで、経と緯を結んだ真ん中が私になるのです。教祖の方は経ですから霊になり、聖師の方は緯だから体になり、それで霊と体を結んで力が生まれるので す。力というものは、霊体一致、霊体が結んで力を発生するのです。ところが今までは、釈迦、キリストにしろ、ああいった偉い人は結んでなかったので、片方 だったのです。釈迦は霊でキリストは体、釈迦は経でキリストは緯ですから、力がなかったのです。それで力というのは、一番は病気を治すことです。ここ (掌)から出る、目に見えない、一つの気、火素と言いますが、この力というのが、つまり霊体結んだ力なのです。ですからこういうことがだんだん分かってく ると、実にはっきり分かるのです。今まで随分偉い人でも、こうやって病気を治すということはなかったということは、力がなかったのです。ということは、霊 体が結ばれてなかったのです。そしてまた、時期がそこまで行ってなかったということです。この話はいずれだんだんにはっきり分かるようにします。それで、 神様は今まで、それをはっきりしてはいけないということになっていたのですが、今度いよいよ節分から変わったのです。ですからこういう点も、これからだん だんはっきり説いてゆきます。そうするといろんなことがいっそうよく分かります。

御講話(S29年2月6日)

 今年の節分は非常に意味があるのです。私としても非常に大きな奇蹟があったのですが、それはまだ言うわけにはゆきませんが、いずれ話をします。この節分 という意味は、大本教と非常に関係があるのです。ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠たるものでなくて、神格を得た人間が住んでいた時代 で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違っ たことは許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様――八百万の神――から、その時分でも世論が、どうもあんまりやかましすぎてとてもや りきれない、だから押し込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押し込められたのです。それで艮(東と北の間)のある地点に押 し込めたのです。そうして、ふたたび世の中に出てこられないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出てきてもよい”と…… もっとも、炒った豆が芽を出すはずがないのですから……それを条件のようにして押し込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆 先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向かって越したり、いろ いろなことをすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それでなにごとも、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。ところが事実は反対で、たいへんな良い立派な神様です。ただ、あん まり正しすぎたためにそういうことになったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、 夜の世界ではまず隠退しなければならないことになるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年たったので、今度は御自 分が、時節が来たので世の中に出る、と……出るについては、いろいろな……お筆先には三千世界の大芝居ということになってます。この押し込めた系統の神 様……総大将は天若彦尊という神様で――これはよく天邪鬼ということを言いますが――その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけで す。その押し込められた時には、わずかな部下を連れて隠退されたが、それから命がなくなって、死んで霊界に行って、三千年の間、閻魔大王になったというこ とになっているのです。お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立替え立直しを致すぞよ」とあります。ということは、審判をされるという ことです。今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするということです。つまりもう悪は許さないということになるのです。そのため に大本教というものをつくったのです。私が大本信者になって、そういうことをいろいろ……表面的のことも、裏面=霊的のこともすっかり分かったので、大本 を脱退して、観音教から救世教というふうにつくったのです。
 お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわな ゆけぬ世であるぞよ」というようなことが書いてあるのです。“三千世界一度に開く梅の花”と言って、梅というのは非常に重要なことになっているのです。そ れで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。観世音菩薩は兄(こ)の花姫になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊 都能売の神になるのです。これは兄の花姫と木の花咲爺姫(このはなさくやひめ)とありますが、兄の花姫というのは兄(あに)の花といって梅になるわけで す。梅が先に咲くから兄の花になるわけです。それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。この場合は仏界のお働きで、木の花咲爺姫は観音様になる のです。富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。それであそこで絵姿を買うことになってますが、あれは桜の枝を持ってます。その富士山の木の花咲爺 姫は頂上の真ん中に祭ってあります。頂上の上り口の右側にあるのが、久須志神社としてありますが、これは九頭龍権現といって、木の花咲爺姫の守護神になる わけで、龍で守護しているわけです。これが最初私に憑った龍神です。それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。ですから兄の花姫は 神様の働きになるのです。それで木の花咲爺姫は仏の働きだからして、最初インドに出られたわけです。ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそう いう因縁になるわけです。
 そこで今年の節分は、いよいよ艮の金神様がこの世の閻魔と現われるという最初になるわけです。ですから、これから審判が厳しくなるわけです。けれどもこ れは最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまりだんだん育つようになって行きます。そのためかもしれないが、最近いろんな汚職事件 が重なり合って出てきましたが、こういうのも一つの現われではないかととれるのです。おもしろいのは、節分の日は大きな奇蹟があったのですが、昨日は小さ な奇蹟があったのです。というのは、道具屋が古い掛物を持ってきたのですが、それは支那の元時代の物で、今から四百年近く前に画かれた絵ですが、それが閻 魔大王なのです。お供がまわりにいて、よく画けてますが、表装がいたんでいるから、それを直していずれ箱根美術館に出しますが、これも小さな奇蹟です。今 まで閻魔の絵というのは見たことがありません。そういうようなわけで、神様のお仕組みは一歩前進したわけです。今年の節分というのはそういう意味があるの です。それで、そうなった結果はどうだというと、つまり善悪の立て分けということになっているのです。ということは、善の方が勝ってゆき悪の方が負けてゆ くのです。そうすると救世教が発展するということになります。こんなよい、すばらしい宗教が、こんなにグズグズしているわけがないので、ドンドン発展しな ければならないわけです。しかし発展が遅いということは、つまり悪の方が押さえているからです。だから、これが分かって、感心して、信者になり、人にもな らせなければいけない、と、そう思っていながら、ついグズグズしているということは、一方にそれを邪魔する霊があるからです。その邪魔する霊が、これから だんだん弱ってゆきますから、そうすると順調にゆくわけです。節分の意義を話したわけです。
 時局についてしばらく話をしませんが、たいてい時局は分かってますが、しかし急所だけを書いてみました。これを読めばいっそうはっきりするわけです。

 それから今はよく新聞などに、米国の医学が進歩しているように、新聞広告なども、米国製の薬というと、たいへん良いように思わせられていますが、つい二、三日前に来た嵐さんの米国画信の中に、ちょっとおもしろいことがあるので読ませます。

 昨夜アメリカのパテー・ニュースを見ましたが、黒人とアメリカ人とのボクシングで、黒人のほうがウンと強くて、米人がさんざんやられて、三回ともノッ ク・アウトされて、それこそ気息奄々(きそくえんえん)で、とうとうまいってしまいました。あれを見ても、黒人とアメリカ人との体質の違いさはたいへんな ものです。それで、黒人の方は進歩した医学のお蔭で育ったのではなくて、むしろ野蛮な育ち方です。そうしてみると、白人との体質の違いさはそうとう酷く なったものです。私も、白人と黒人とのスポーツの闘争を見ましたが、昨夜のようなひどいのはないです。そういうわけで、白人の弱り方はひどいです。外観の 格好はよいですが、さて実力となるとそういうようなわけです。というのは、西洋医学は形だけを丈夫にして、芯の強さというのは気がつかないのです。日本人 などは昔から芯の強さがある国民性ですが、それをだんだんアメリカ式にやりつつあるわけです。今はアメリカ人で手術をしてない人はほとんどないそうで、た いてい盲腸を取るとか、女なら卵巣を取るとか、内部的片端というのが大部分なのです。どうしてもこっちの医学、神霊療法を教えなければしようがないです。 今年あたりからは、アメリカの方もそういうように神様がやられるに違いありません。今のは参考になると思ったから読ませたのです。
 それからジャーナリストに対する論文ですが、これはこの間書いたのですが、もういっそう徹底して書いてみたのです。

 とにかく問題は、変な新宗教がたくさんありますから、どうも救世教がそれに類似しているように思う、その点にあるのです。ただ、他の新宗教とは違う、救 世教は別のものだということを認識させる、それが一番肝腎です。それは神様も知りぬいていますが、時期が来て、熱海の地上天国ができることと、自然栽培を する人がたくさん増えること、ということで、“これは違う。なるほど救世教はたいしたものだ”ということが分かるわけなのです。それも間もない話ですか ら、そう気をもむことはいらないのです。それがちょうど、さっきも話したとおり、節分から霊界が変わるのですから、ちょうど言ったこととよく合ってゆくわ けです。実に、神様がやられることですから抜け目がないわけです。それでお筆先に「今度は三千世界の大芝居であるから、善の役と悪の役と両方拾えてあるぞ よ」ということがあるのですが、これなどは実にうまいことを言われていると思います。というのは、悪い役をしているものが、結果はたいへんな良い役をして いるわけです。これはよく知っているでしょうが、救世教がこうして世の中に出て発展する一番の功労者は医者です。もし、医者が片端から病人を治してしまっ たら、こっちは用はないのです。医者や薬が病人を作って苦しませる、それだからしてこっちの発展する意味があるのです。そうすると“医者はけしからん、薬 という毒を瞞して服ませるのは、とんでもない話だ”と言っているが、実はそれがため、救世教によって神様があるということを分からせられるのですから、本 当は悪く言うことはできないのです。人間の感情と見方……小乗的見方と大乗的見方があります。ジャーナリストが分からないということは、やっぱり、結果か ら言うと必要なのです。そこで分からない者や、誤解した者に対して、逆なことを見せるとびっくりしますから、それがやはり一つの必要でもあるし、おもしろ いことでもあります。“救世教とか言って、戦後の波に乗じて、うまいことを言って瞞して、あれだけの金を集めて、シャクに障る”と言う奴が、いよいよ地上 天国ができて、見て、ウワッと言って驚くのです。ですからそういうのを予期した者に見せるよりか、予期しない者に見せた方が、なんと言うか、張り合いがあ るわけです。大いに痛快味があります。いつも言うとおり、人間は善悪は決められないということはそこです。あれまでになるについて、随分悪い人間やいろい ろな者がいろいろなことをしましたが、それはイコールみんなプラスになってます。だからそれをよくみると、世の中というものは実におもしろいものと思うのです。

御講話(S29年2月7日)

 今年の節分について、もう少し詳しく話をしてみます。前にも言ったことがありますが、節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が、世界を支配して いたということになっているのですが、その時分のことだから、世界といったところで全部だかどうだか分かりませんが、まず日本を中心にして、そうとう広範 囲に支配していたに違いないのです。それで神様といったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間 の世界の終わりぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。それでよく 「天神七代、地神五代」ということがありますが、天神時代というのは、天の神様……神道のほうで言うと「天津系」「国津系」あるいは「天津神」「国津神」 と言いますが、天系です。だいたい日本民族は天系なのです。その天系だったころは天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。それで、これはいつかも 言いましたが、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、それよりか前に国常立尊という神様が支配され ていたのです。その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しいことでないと許さない、というようなことのために――これも神道の方にもありますが ――大勢の神様が一致して押し込めたのが節分の晩としてあるのです。その押し込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出 られないようにというので、艮(東北)の方角に押し込めたとなっているのです。そうして、艮に押し込めたからして艮の金神というお名前にもなり、艮の金神 国常立尊となったのです。そうして節分の晩に豆をまきますが、“炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押し込めてしまう”というわけで、それ から炒豆をまいたのです。それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様がふたたびこの世に現われる、その機関としてできたのが大 本教です。ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。こ の世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」ということを教祖は獅子吼(ししく)したわけです。最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違い扱いされて警 察に留置されたことがありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。それが明治二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、梅と いうのは、花は五弁になってます。これは五大州を形取ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くということなので す。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。それで、大本教を開いたのは、霊界がそう なったのです。ところが今度は現界がそうなる。ということになったのは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言うことは できません。一年ぐらいは言うことはできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備していたことですが、そういうよ うなわけで、いよいよ表になるということと、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」ということがあるのです。というのは、御隠退になって いるときは、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。閻魔大王というのは、要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、 そういった……裁きの最高の地位です。ところが「この世の閻魔と現われた」というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。
 これがまたおもしろいのは、立春の日に京都の方の道具屋が閻魔大王の絵を持ってきたのです。それで私は“ハハア、神様は、いよいよ国常立尊様が現界の閻 魔のお働きをされるということだ”ということを思って買いました。それは支那の元時代の絵ですが、閻羅(えんら)王と書いてありますが、支那では閻魔大王 のことを閻羅王と言うのです。吉田松陰の書いたものにもありますが、「精神一到何事か成らざらん。われ王侯を得ずんば、死して閻羅王とならん」ということ がありますが、王侯というのは大名のことを言うのです。やはり日本でも閻羅王ということを言われたわけです。それで、家来が二、三人いましたが、いずれ美 術館に出します。神様はすべて型で見せますから、その閻羅王の掛物によってお知らせになったわけです。そういうようなことがあったのです。立春の日には、 その掛物は知らなかったのですが、その掛物は午後に来たのです。それでこの節分から非常に浄化が強くなるということを言いましたが、やはり合っているわけ です。そういうようなわけで、今年からまた非常に霊界が明るくなるわけです。明るくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しいことに なります。最近いろんな汚職事件が出ましたが、こんなに一度に次々に出るのは、今までに例がないでしょう。これもやっぱりその一つの現われというように見 られないことはないです。そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわ けです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様ということになるからして、実は、一番善い神 様、一番立派な神様です。それでおもしろいのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまくときには「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分か ら天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うということは、人間が正しい人がなかったからです。 たいてい穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみ ですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、もし方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。ただ病気と同じで、一時浄化作用が起 こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常にさかんで、むしろ宣伝的にやりますが、救 世教は絶対にやらないということは、そういう根本的の理由があるからです。
 時局についてはしばらく話もしなかったし、一応知っておく必要がありますから書いてみました。

 ジャーナリストに対しては、この間も書きましたが、まだ書き足りないような気がするので、もういっそう突っ込んで書いてみました。これも時の問題で、そう長くは続かないと思いますが、しかし言うべきことは言っておかないといけないと思って書きました。

 二、三日前にアメリカに行っている嵐さんから手紙が来ましたが、その中に、アメリカ人が非常に弱っていることが書いてありますが、参考になると思いますから読ませます。

 いつも言うとおり、医学は駄目です。一昨日パテー・ニュースを見ましたが、その中にボクシングで黒人の選手とアメリカ人の選手と両方闘ったのですが、ア メリカ人の弱いこと、手玉にとられてました。ちょうど猫が鼠をオモチャにしているようで、立ち上がればやっつけられ、立ち上がればやっつけられしてまし た。それで黒人のほうは白人より小さいのですが、立ち上がればぶつかるというように三度ともそうで、白人をノック・アウトしてしまいました。私はよくボク シングのニュースを見ましたが、一昨日のぐらい馬鹿馬鹿しいのは見たことがないです。それで、帰ってからこの手紙を見たので、アメリカ人がいかに弱ってい るかということが分かったのです。ですから今年あたりからアメリカの方が大いに発展するだろうと思いますが、そうしたらいよいよ分かる時期が来ると思いま す。ところがそれを知らないから、日本人はアメリカ崇拝で、化粧品の広告からなんでも“アメリカ、アメリカ”を出してますが、実に馬鹿馬鹿しくて見ていら れないです。この手紙の中にあるもう一つのおもしろいことは、アメリカ人の信者が三人できたのですが、何病気か非常によく治って、だいぶ働くようなことが 書いてありました。そういうようなわけで、今の科学文明のポロがこれからだんだん出てくるわけです。さっき言ったとおり、艮の金神様がいよいよ働かれます と、そういったことがみんなはっきりしてしまうのです。薄暗い所に明かりがさしたようなものです。そして、お筆先の中にこういうことがあります。「善と悪 とを立分ける」――ということは、つまり善人はますますよくなり、悪人はますます悪くなるということで、そういうことがこれから現われてくるのです。です から汚職事件というのはその一つの現われでしょう。そうなると病人が増えるのと、浄霊の治り方がよくなるのと両方で、どうしても発展するわけです。ですか らある時期に行くと――と言っても、もう間近ですが――非常に信者が増えるとともに、世の中に知れてくるというわけです。特に地上天国ができるのと、自然 農法が知れわたるに従って拍車をかけるわけですから、いよいよおもしろくなります。
 この地上天国についても、アメリカのジャーナリストと言いますか、そういう方面が非常に注目してきたのです。その話は、もう少し具体的になってきてから 話しますが、こっちが知らないうちに、先方で調査して非常に研究してます。それでそのアメリカ人がだいぶ各国の大使などにも知らしているようです。これは おもしろいので、こっちでなにも頼みもしないうちに、先方で活動しているのですが、やっぱり神様がよろしく働かせているのでしょう。ですから、もう少した つと、その方面がなかなかおもしろくなるという情報が最近よくありますが、だいぶ楽しみになってきたわけです。